権力掌握と治世初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 11:15 UTC 版)
「スヴァトプルク1世」の記事における「権力掌握と治世初期」の解説
フランク人の文献(フルダ年代記)では、スヴァトプルクは869年に初めて言及される。この時点で彼は大モラヴィアのなかに個人の「国家」(regnum) を有していた。彼の宮廷は「ラスティスラフの古い都市」(urbs antique Rastizi) にあったという。この都市については、チェコのスタレー・ムニェスト(文字通り「古い都市」の意)やスロバキアのニトラ、セルビアの古市シルミウム(現スレムスカ・ミトロヴィツァ)など諸説ある。 スヴァトプルクの「国家」は、869年に東フランク王ルートヴィヒ2世の息子カールマン率いるバイエルン軍に侵略、略奪された。また同時に、ラスティスラフの支配域にはカールマンの弟カール(3世)率いるフランケン軍・アレマンニア軍が侵攻していた。この両軍は間もなく東フランクへ帰っていったが、この時スヴァトプルクはひそかにカールマンと連絡をとり、彼に自身とその領国をゆだねる密約を結んでいた。 これを知ったラスティスラフは猛烈に怒り狂ったといわれ、彼は甥のスヴァトプルクを宴会に招いて謀殺しようとした。しかしスヴァトプルクはラスティスラフの策略についてあらかじめ密告を受けていたため、逆にラスティスラフを捕らえてカールマンの元へ身柄を送った。ラスティスラフが厳重な警備の元バイエルンへ追放されると、カールマンは直ちに彼の領土を併合した。 ラスティス(Rastiz、ラスティスラフ)の甥ツヴェンティボルト(Zwentibald、スヴァトプルク)は、熟慮の末、自らとその王国をカールマンにゆだねた。ラスティスはこれに怒り狂い、ひそかに甥を襲撃しようと企み、宴会の中で彼があらゆる攻撃を想定していないうちに縊り殺そうとした。しかし神の恩寵により、彼(スヴァトプルク)は死の危険から逃げおおせた。建物のなかに彼を殺そうとする者たちが入ってこようという前に、彼はある陰謀を知る者から警告を受け、鷹の訓練に行くと偽って外へ出かけたので、襲撃を免れることができたのである。ラスティスは陰謀が露見したことを知ると、甥を捕らえるため戦士たちに後を追わせた。しかし神の公正なる審判により、彼は自らが仕掛けた罠にはまり、彼は甥に捕らえられ、縛られカールマンのもとへ送られた。彼は逃れられないように戦士たちの護衛を受けてバイエルンへ送られ、王の御前に引き出されるまで牢獄に留め置かれた。 —フルダ年代記 (870年) ラスティスラフを捕らえた褒賞として、カールマンはスヴァトプルクの個人領を安堵したが、残りの大モラヴィアの領域はオストマルク共同辺境伯ヴィルヘルム2世・エンゲルシャルク1世の兄弟に与えてしまった。またカールマンはラスティスラフとスヴァトプルクの領域に対する支配権を主張し、教皇ハドリアヌス2世によりシルミウム大司教に任じられていたメトディオスを捕縛した。さらに871年前半、カールマンはスヴァトプルクにも背信の罪を着せて投獄した。スヴァトプルクが、カールマンに反抗する弟ルートヴィヒ3世や西フランク王シャルル2世と内通していたというのが罪状であった。モラヴィアの民はスヴァトプルクが死んだと思い、新たにモイミール家のスラヴォミールを君主に立てた。
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