権力掌握後の保護政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/10 23:18 UTC 版)
「ナチズムと環境保護」の記事における「権力掌握後の保護政策」の解説
ヴァイマル共和政時代のドイツにおいては、自然保護を目的とした立法はほとんど無く、一部の州において成立していた天然記念物保護制度も予算の少なさから正常に機能していなかった。ナチ党の権力掌握を、ブランデンブルク天然記念物保護委員長のハンス・クローゼ(ドイツ語版)はこのような発言をして歓迎した。「多くの(ナチスの)好意的な発言や兆候が示しているのは、国家社会主義的ドイツが、郷土・自然保護の利益を、以前のどの時代よりもはるかによく考慮に入れるだろうということである」。また プロイセン国立天然記念物保全局長を25年間つとめたヴァルター・シェーニヒェン(ドイツ語版)はナチズムと自然保護を結びつけようといくつもの論考を発表している。 1933年4月にはこの種の法律の一号となる「動物の屠殺に関する法律」が制定され、処置を行う際には、動物に対して不必要な苦痛を与えないよう気絶させるように求められた。8月17日にはプロイセン州において動物実験を原則的には禁止する法制が施行された。11月24日には動物保護法が制定され、1934年には 「国家狩猟法」が制定された。11月には「森林法」が制定され、森と樹木の保護が求められたが、拡大する軍需のためにこの法律はないがしろにされていった。 1935年にはライヒ自然保護法(ドイツ語版)が制定された。制定に当たっては帝国森林監督官、狩猟局長官であったヘルマン・ゲーリングの強いイニシアチブがあった。文部省と司法省が別々に草案の策定を行っていたが、両者の間では主導権争いが発生していた。この状況が数か月続いた後の4月30日、ゲーリングは自らの帝国森林庁が法案制定にあたると宣言した。ゲーリングが法案制定を指示したのは4月30日であり、各省に草案が送付されたのは6月15日、各省庁の担当者間で打ち合わせが行われたのは6月24日であった。この手続きはあまりにも拙速であると反発もあったが、翌25日には修正された草案が配布され、26日には閣議決定された。法案の実質的な起草者クローゼは、ゲーリングに対する謝辞をたびたび述べているが、ゲーリングの動機は趣味であった狩猟のため、ショルフハイデの自然保護区を保護する目的があったためとされている。この法律はドイツ国全体に共通する自然保護法制として画期的なものであり、景観を大きく変更する場合には所轄官庁が関与する義務を規定したものであった。 しかし第6条で「国防軍、重要な公共交通路、海洋航行及び内水航行、生活上重要な企業に資する土地は自然保護によってその利用を妨げられてはならない」という規定が存在し、「四カ年計画」が進行し、開発が進められていたドイツにおいては、無制限な資源収奪が進行していった。第二次世界大戦勃発後の1942年4月1日と1943年7月1日、ゲーリングの発した回状によって自然保護業務の大半は停止され、1944年9月30日の布告によって、ライヒ自然保護法の執行は停止された。
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