権力掌握までの演説
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「アドルフ・ヒトラーの演説一覧」の記事における「権力掌握までの演説」の解説
アドルフ・ヒトラーは友人アウグスト・クビツェクの前で建築や政治について熱を込めて語ることはあったが、多くの人の前で演説したことはなかった。クビツェクの回想によれば、話の内容には興味がなかったが、それでも生き生きと語るその技術には毎回感心させられたという。複数人の前で演説と呼べるものを初めて行ったのは、1919年、バイエルン革命ののち、ヴァイマル共和国軍に帰還してきた兵士を再教育するための啓発教育部隊に勤務していたころのことである。同僚の兵士に対して雄弁に説得し、次第に周囲が興奮していくさまを見た歴史学者カール・アレクサンダー・フォン・ミュラー(ドイツ語版)教授は、部隊の指導者カール・マイヤー大尉に「いったん話し出すと止まらない」「弁舌をふるう生まれつきのテノール」がいると告げた。1919年8月15日にレヒフェルト兵舎の帰還兵の前で行った演説は、兵舎の責任者によって「ユダヤ人による批判を許してしまう」と評されたほど反ユダヤ主義色の強いものであったが、帰還兵たちは「受講者全員が感激し」、「生まれつきの民衆演説家」と絶賛するレポートを書いている。ヒトラー自身も「私は『演説する』ことができた」と『我が闘争』において振り返っている。 9月12日、ヒトラーはマイヤー大尉に「ドイツ労働者党」という小政党の調査を命じられた。そこでバイエルンとオーストリアの連合を主張していたバウマン教授に反発し、大ドイツ主義を説く演説を行った。この演説を高く評価した党の指導者のひとりであったアントン・ドレクスラーはヒトラーに入党を要請、ヒトラー自身も応じることとなった。ヒトラーは演説家としての声望が高まるにつれ党内での地位を高め、1920年1月には党の宣伝部長となった。2月24日には国家社会主義ドイツ労働者党の発足となる2000人を集めた集会で演説を行い、25カ条綱領を採択させた。この演説でヒトラーは優秀な演説家の一人として評価を受けることとなり、党の集会には毎回1000人から2000人が集まるようになり、のちの副総統ルドルフ・ヘスもヒトラーの演説に感動して入党を決めている。このころヒトラーは通常2時間の間、強い古いドイツと弱い今のドイツを対比させ、独裁を求めつつ、反ユダヤ主義を訴えるという手法をとっていた。1921年7月29日には党の独裁的指導権を手に入れ、「指導者」(ドイツ語: Führer )と呼ばれるようになった。ヒトラーはこのころまで自らを運動の「太鼓たたき」(ドイツ語: Trommler)としていたが、やがてドイツを指導する人物であることを意識した演説を行うようになった。 ミュンヘン一揆での裁判中、法廷で行われたヒトラーの演説は、新聞報道を経て全国規模で彼に対する注目を高めることとなり、エーリヒ・ルーデンドルフ将軍と並ぶ大物であると認識されるようになった。出獄後にはヒトラーの影響力を懸念した各地の州政府によって、次々と公開演説禁止命令が出されている。ヒトラーは禁止命令が出ていない地域で演説を行い、それ以外ではアドルフ・ワーグナーに原稿を代読させた。演説禁止が解除されてからも積極的な演説活動を続けたが、1932年頃になると喉の酷使で声帯が麻痺する恐れがあると診断されるようになった。そこでヒトラーはオペラ歌手パウル・デフリーント(ドイツ語版)の指導を受け、声帯に負担をかけずよく通る発声術や、効果的なジェスチャーを身につけた。ヒトラーはそれまで演説をするたび汗まみれになり、疲労困憊となっていたが、正しい発声法により声量も増えた。また演説中に感情が高まりすぎてコントロールできなくなることもしばしばあったが、「銀色の犬の首輪」を見つめて気を落ち着かせることで、感情をコントロールできるようになった。ヒトラーはデフリーントに「これで私はもはや弁士として問題がなくなった」と感謝の気持ちを伝えている。
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