権力政治 1954年-1963年
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「ミシェル・アフラク」の記事における「権力政治 1954年-1963年」の解説
シーシャクリー政権打倒後、シリア初の民主的議会選挙が実施された。アフラク、ビータール、ホーラーニー率いるバアス党は、16~22議席を得た。この影響力の増大はホーラーニーに依るところが大きく、旧アラブ社会党の支持者がバアス党に投票したからである。この頃から、アフラクは権力を失いつつあり、ホーラーニー派が多数派となった。その証拠に、アフラクの反対にもかかわらず、シリア共産党との共闘が決定されたことが挙げられる。第2回党大会においては、アフラクは新しい民族指導部の事務総長となり、党首に相当する地位は確保した。 1958年、シリアはエジプトとアラブ連合共和国を結成したが、指導者であるエジプトのナセル大統領によって、アフラクは党の解散を余儀なくされた。アフラクは党大会で話し合うのではなく、自らの手で解党した。バアス運動はナセル政権によって脇に追いやられることになった。ほんの一握りの元バアス党員だけがアラブ連合共和国の公職を得ることができ、ホーラーニーは副大統領となり、ビータールはアラブ統合の総務担当、後に文化国家指導大臣となった。一部の若手活動家は、党大会の決定無しで解党を決めたアフラクに責任があると考え、アフラクへの非難の声が高まった。結局、ハーフィズ・アル=アサドとサラーフ・ジャディードらが、党の全滅を防ぐために軍事委員会を立ち上げた。 1959年の第3回党大会ではアフラクの解党決定が支持されていたが、1960年の党大会では、ジャディードが当時知られていなかった軍事委員会の代表として参加し、決定を覆して党の再建を要求した。大会では、アラブ連合共和国の民主化によってナセルとの関係改善を決定した。また、ホーラーニー派はシリアの離脱を要求した。 1961年にアラブ連合共和国の解消が決まった際には、ビータールを含むメンバーの一部は拍手を送った。 1961年の選挙では20議席を確保した。1962年、ホムスで第5回党大会が開催されたが、4年ぶりにアフラクが主催した。ホーラーニーは招待されず、アフラクに反抗的な活動を行う者、アラブ連合共和国時代にナセル主義者に転じた者なども招かれなかった。アフラクは民族指導部事務総長に再選され、シリア地域のバアス組織の再建を命じた。党大会中に、アフラクと軍事委員会は、ムハンマド・ウムランを通じて、初めてコンタクトを取った。軍事委員会はクーデターの許可を求め、アフラクはそれを支援した。バアス党イラク地域指導部が1963年2月にラマダーン革命を成功させたことを受け、軍事委員会はナーズィム・アル=クドゥシー大統領に対するクーデターを急いで準備した。1963年に軍事クーデターである3月8日革命を成功させ、シリアにおいてバアス党政権が打ち立てられた。クーデター指導者達の最初の命令は、革命指導国民評議会(NCRC)の設置であり、バアス党員とナセル主義者によって構成されたが、初めから市民ではなく、軍人主導であった。
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