グイード1世・ディ・スポレート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/11 08:45 UTC 版)
Jump to navigation Jump to search![]() | この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2015年6月) |
グイード1世・ディ・スポレートまたはグイドーネ(Guido I da Spoleto/Guidone, ? - 860年)は、スポレート公(在位:842年 - 860年)である。息子にイタリア王で西ローマ皇帝となったグイード3世・ダ・スポレートがいる。ムラトーリ(en)の著書の843年の項には、グイードはスポレート侯をしていたとされており[1]、ブリツィオによればイヴレーア侯をしていたという。
834年にはロタール1世の側近の1人であったナント伯ランベール1世の息子として言及されている。840年の皇帝ルートヴィヒの死去により、ロタリンギアにあるメットラハの修道院を与えられた。シコーネ1世ディ・ベネヴェントの娘、イッタと結婚。
843年には839年のシカルド公の暗殺に続いたベネヴェント内戦に、義理の兄弟であるシコノルフォの求めに応じて介入した。様々な抗争において1度ならず仲裁人として介入を行ったが、結局ロタールの後継人ルートヴィヒ2世でなければ紛争を終結させることはできなかった。
846年にはサンピエトロの略奪を行ったサラセン人を独力でラーツィオの外へ追いやることに成功。
858年、グイードはカープア伯ランドーネ1世に対し敗北したアデマーロ・ディ・サレルノを支持し、この功によりカープア伯の兄弟であるランデルノルフォ1世・ディ・テアーノに奪われたリーリ渓谷とソーラとアルピーノの支配をまかされた。
860年に死去、長子ランベルト1世がスポレート公位を継承した。
脚注
出典
- Llewellyn, Peter. Rome in the Dark Ages. London: Faber and Faber, 1970. ISBN 0-571-08972-0.
- di Carpegna Falconieri, Tommaso. Guido, in Dizionario biografico degli italiani, 61, Roma: Istituto della Enciclopedia italiana, 2003, pp. 352-354.
関連項目
|
|
|
固有名詞の分類
スポレート公 |
ランベルト・ダ・スポレート グイード・ダ・スポレート グイード1世・ディ・スポレート アルベリーコ1世・ディ・スポレート |
- グイード1世・ディ・スポレートのページへのリンク