東プロイセン - 敗戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/16 13:31 UTC 版)
「第1降下装甲師団」の記事における「東プロイセン - 敗戦」の解説
ヘルマン・ゲーリング降下装甲軍団(Fallschirm-Panzerkorps Hermann Göring)は1944年10月初めに実働状態になり、ヘルマン・ゲーリング第1降下装甲師団は兄弟部隊のヘルマン・ゲーリング第2降下装甲猟兵師団と共に軍団の指揮下に入った。その後、装甲軍団は既にクールラント・ポケットで北方軍集団の包囲を完了し東プロイセンの占領を意図する赤軍の攻撃をくい止めるために東プロイセン-クールラント地区に送られた。装甲軍団はグムビンネン近郊で激しい防御戦闘を行い、1944年11月遅くに赤軍の突撃攻撃が止むと装甲軍団は定地防御線を構築した。 赤軍の強力なヴィスワ=オーデル攻勢はヘルマン・ゲーリング降下装甲軍団を第4軍の残存兵力と共にハイリゲンバイル・ポケット(Heiligenbeil Pocket)に追い込んだ。2月に陸軍のエリート部隊であるグロースドイッチュラント師団が装甲軍団に配属された。 包囲網を突破する試みが幾度か行われたが装甲軍団はポメラニアのスヴィネミュンデ(Swinemünde)から海路で脱出しなければならなかった。上陸すると同時に装甲軍団は3月中旬まで続くオーデル・ナイセ線の防衛戦に投入された。軍団の戦力増強のためにブランデンブルク装甲猟兵師団(Panzergrenadier-Division Brandenburg)が部隊に編入された。 4月にヘルマン・ゲーリング降下装甲軍団の残存兵力はシレジアに送られ、激しい戦闘を行いながら徐々にザクセン州に押されていった。4月22日、2つの師団の内の1つのヘルマン・ゲーリング第1降下装甲師団はポーランド第2軍(Polish People's Army 又は LWP)と赤軍第52軍の境界線を突破した。師団はバウツェン近郊の戦闘でそれらの連絡網と補給列車を破壊し、2日後に止められるまでLWPの第5歩兵師団と第16戦車旅団に手酷い損害を与えた。 5月初めまでヘルマン・ゲーリング降下装甲軍団はザクセン州の州都のドレスデンに駐留していた。軍団の残存部隊は、当時エルベ川で進軍を停止していた米軍に降伏するために西へ脱出しようとしていた。包囲され軍団は様々な突破を試みたにも関わらず、幾つかの小集団のみが西への脱出に成功しただけで1945年5月8日に軍団の大多数は赤軍に降伏した。武装親衛隊と警察部隊と共に空軍部隊員は東部戦線で残虐行為に関与したためにロシア人から戦争犯罪人とみなされていたのでヘルマン・ゲーリング降下装甲軍団の生存者の大部分はソビエト連邦のグラグから戻ってこなかった。
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