東プロイセン攻略・戦死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/24 14:12 UTC 版)
「イワン・チェルニャホフスキー」の記事における「東プロイセン攻略・戦死」の解説
1945年1月12日、ソ連軍はバルト海からヴィスワ川にかけてのポーランドと東プロイセンにかけて一斉に大攻勢を開始し、ベルリンをめざした。東プロイセンでは、コンスタンチン・ロコソフスキー上級大将の第2白ロシア戦線が南部からダンツィヒの攻略を目指し、さらにチェルニャホフスキー大将の第3白ロシア戦線は東方のインステルブルクから、ティルジットから南下するイワン・バグラミャン大将の第1沿バルト戦線と協調しつつケーニヒスベルクにむけて攻撃を開始した。ドイツ軍中央軍集団は戦線を支えきれず、ミュラー大将のドイツ第4軍など残存部隊は1月24日までにケーニヒスベルクに追い詰められる。2月1日にエルビンクを占領してケーニヒスベルクを包囲することに成功したが、メールザック付近の最前線を視察中、砲弾の破片に当たって重傷を負い、搬送されたヴィリニュスの病院で2月18日に死亡した。39歳だった。 戦後、東プロイセンはソ連領カリーニングラード州とポーランドに分割され、インステルブルクは彼の名誉を称えてカリーニングラード州チェルニャホフスクと改名された。墓地はヴィリニュスにあったが、ソ連崩壊後にモスクワのノヴォデヴィチ女子修道院墓地に移されている。 ウィキメディア・コモンズには、イワン・チェルニャホフスキーに関連するメディアがあります。 (window.RLQ=window.RLQ||[]).push(function(){mw.log.warn("Gadget \"ReferenceTooltips\" styles loaded twice. Migrate to type=general. See \u003Chttps://phabricator.wikimedia.org/T42284\u003E.");});
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