演奏家としての初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 18:12 UTC 版)
「カール・パーキンス」の記事における「演奏家としての初期」の解説
1946年終盤毎週水曜日、パーキンスと兄のジェイはテネシー州ジャクソンの南へ約12マイルの45号線沿いの酒場コットン・ボールでチップを得ることで初めてプロとしての演奏を行った。パーキンスはこの時まだ14歳であった。アップテンポに変更しカントリーとブルースの要素をミックスしたビル・モンローの『Blue Moon of Kentucky 』等を演奏した。演奏の報酬の1つとして飲み物が無料であったため、初めての演奏の夜にパーキンスはビールを4杯飲んだ。それから1ヶ月も経たないうちにジャクソンの西の境界近くの酒場サンド・ディッチで毎週金曜日と土曜日に演奏をするようになった。どちらの酒場でもしばしば喧嘩が起こり、パーキンス・ブラザーズも喧嘩に参加することで有名だった。 その後2年間、パーキンス・ブラザーズはジャクソン周辺のエル・ランショ、ザ・ロードサイド・イン、ザ・ヒルトップなど他の酒場でも演奏を始め、よく知られるようになった。パーキンスは弟のクレイトンを説得してベースフィドルを演奏させてバンドに取り込んだ。 1940年代後半、テネシー・ランブラーズのメンバーとしてジャクソンのラジオ局WTJS-AMにレギュラー出演していた。『Hayloft Frolic 』にも出演し、『グランド・オール・オープリー』でのロバート・ランの『Talking Blues 』など2曲を演奏していた。『The Early Morning Farm and Home Hour 』に最初はパーキンスのみ、後に兄弟も出演した。圧倒的な支持を受け、マザーズ・ベスト・フラワー提供の15分間のコーナーを持つことになった。1940年代終盤、パーキンス・ブラザーズはジャクソンでは最も有名なバンドになった。 パーキンスはこの数年間、音楽の他に仕事を持っており、当初綿花摘みをしていたがその後デイズ・デイリーに勤務し、さらにその後はマットレス工場と電池工場に勤務した。1951年から1952年まではコロニアル・ベイキング・カンパニーに勤務した。 1953年1月、パーキンスは長年の知人であったヴァルダ・クライダーと結婚した。ヴァルダは自分が働いて、パーキンスのベイカリーでの勤務時間を減らして酒場での演奏時間が増えるようにし、パーキンスは週6日演奏するようになった。同年後期、それまで音楽の経験がなかったが天性のリズム感があるW・S・ホランドがドラム奏者として参加した。 マルコム・イエルヴィントンは彼らを1953年にテネシー州コヴィントンで演奏していた頃から知っていた。イエルヴィントンはパーキンスについて彼独自の独特のブルースのようなスタイルを持っていたと語った。1955年頃までパーキンスはテープ・レコーダーを借りてデモ・テープを自作し、宛先は市名と社名のみでコロムビア・レコードやRCAレコードなどに送った。クラブ等に出演する傍ら、デモ・テープを色々なレコード会社に送るも、全く反応が無く、意気消沈としていた。 1954年7月、パーキンスと妻のヴァルダは、サン・レコードから既にデビューしていたエルヴィス・プレスリー、スコティ・ムーア、ビル・ブラックの新曲『ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー』をラジオで聴き、ヴァルダはパーキンスにメンフィスにいる誰かがきっと理解してくれるはずだと語った。後にプレスリーは、パーキンスに会ってエル・ランショでの演奏を聴くためにジャクソンに行ったことがあると語った。『ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー』が終わると、彼は「私たちの演奏を理解してくれる人がメンフィスにいる。彼に会わなくてはならない」と語った。 数年後、演奏仲間のジーン・ヴィンセントはインタビューで『ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー』について、「新しいサウンドではなくその時すでに多くの人々、特にカール・パーキンスがこのようなサウンドを作り上げていた」と語った。
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