演奏家からシンガー、アクターとは? わかりやすく解説

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演奏家からシンガー、アクター

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 13:52 UTC 版)

ディック・ミネ」の記事における「演奏家からシンガー、アクター」の解説

在学中から軟派気風加わり次第ダンスホールなどでジャズ傾倒。自らもバンド一員となり、アルバイトで歌も歌っていた。また、当時としては珍しいスティールギター演奏出来たため、レコード会社各社アルバイト演奏行いミス・コロムビアの歌う『十九の春』の伴奏なども務めたミネ同大学卒業後、父親勧め逓信省貯金局就職したもののダンスホールバンドメンバー誘われ音楽身を立てる決意をした。1934年昭和9年)、タンゴ楽団「テット・モンパレス・タンゴ・アンサンブル」で歌手ドラマーとして活躍していたところを淡谷のり子見出されレコード歌手の道を歩むこととなる。同年創立されテイチクレコードにてテイチク専属ジャズバンド計画持ち上がりミネプレイヤー人選行った結果白人3人、日本人6人となるディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダス」が東京結成される。そして、このジャズバンド組み同年8月7日録音された『ロマンチック』はミネデビューとなったその後テイチクレコード重役だった作曲家古賀政男推薦で、同社で『ダイナ』をレコーディング。同曲では、自ら訳詞編曲演奏担当トランペッターとして南里文雄ドラムとして泉君男も参加し片面カップリングされた『黒い瞳とともにテイチク創立以来大ヒットとなった古賀勧めで、当時いわゆる流行歌」もレコーディングするようになる映画女優星玲子とのデュエット曲である『二人は若い』をはじめとして1935年昭和10年)には『波止場がらす』、『ゆかりの唄』などをリリース、これらの大ヒット従来の純日本調の歌手とは一線を画す新たなファン層取り込んで一躍流行歌界の寵児となる。『愛の小窓』、『人生の並木路』、『旅姿三人男』と歌謡曲ヒットが続く一方で、『アイルランドの娘』、『林檎の樹の下で』、『ラモナ』、『イタリーの庭』などの外国曲日本語歌い戦前ジャズシーン飾った功績大きい。こうしたヒットの連続により、設立間もないテイチクは、ミネのほか、藤山一郎楠木繁夫美ち奴ドル箱スター抱え大手レーベル仲間入り果たしたであった1935年5月以降ミネ朝鮮半島の「オーケーレコード」から「三又悦」(サム・ウヨル)名義朝鮮語訳詞の歌を数曲発売している。当時日本であった同地でもミネ人気高く、彼自身朝鮮語うまかったので「長い間朝鮮人間違われ白眼視された」と証言している。 ミネスクリーンへも活躍の場広げ伊賀山正徳監督日活映画ジャズ忠臣蔵』をはじめマキノ正博監督の『弥次㐂夛道中記』(1938年)、『鴛鴦歌合戦』(1939年)、『弥次喜多 名君初上り』(1940年)、あるいは島耕二監督の『街の唱歌隊』(1940年)といったミュージカル映画出演した

※この「演奏家からシンガー、アクター」の解説は、「ディック・ミネ」の解説の一部です。
「演奏家からシンガー、アクター」を含む「ディック・ミネ」の記事については、「ディック・ミネ」の概要を参照ください。

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