演奏家、教師としてとは? わかりやすく解説

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演奏家、教師として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/04 00:16 UTC 版)

ウィリアム・スタンデール・ベネット」の記事における「演奏家、教師として」の解説

1843年ロンドン戻ったベネットは、翌年海軍ジェームズ・ウッド中佐の娘であるメアリ・アン・ウッド(1824 - 1862)と結婚した作曲活動多忙極めた教職音楽管理業務により後回しならざるを得なかった。ヘンリー・ハドウは1907年にこう記している。「彼はイングランドへ帰国20年近くの間、数曲の歌曲賛美歌ピアノ曲のみしか作曲しなかった。この時期彼にまつわることといえば、教職編纂管理業務追われていたという話くらいし見当たらない。」 ベネット1842年より、ロンドンロイヤル・フィルハーモニック協会指揮者となった。彼はメンデルスゾーンルイ・シュポーア協会管弦楽団協演してくれるよう説得し公演満員として収入増やし協会財政危機から救うのに貢献した1842年には、同管弦楽団スコットランド交響曲として知られるメンデルスゾーンの「交響曲第3番」を作曲者自身指揮ロンドン初演している。これはライプツィヒでの世界初演の2ヵ月後のことであったメンデルスゾーン1844年にも協会当期最後の6回の演奏会指揮台上がっており、自作ベネット作品など他の多く作曲家作品取り上げた1843年エディンバラ大学音楽科教授ポスト空席となったメンデルスゾーンの強い勧めもあり、ベネットはそこに応募することにした。メンデルスゾーン学長にこう書き送った。「応募者に代わり、私が学長殿にその多大な影響力行使していただきたくお願い申し上げます応募者のスタンデール・ベネット氏はあらゆる点でその職に就く価値ある人物と言え彼の芸術分野ならびに国内において真に異彩を放っており、また存命音楽家中でも最良かつ最高の才能を持つ一人であると考えます。」しかしながらこのような後援甲斐むなしくベネット応募失敗終わった1848年5月クイーンズ・カレッジ開校に伴いベネット開校講義行い職員として加わったが、一方で王立音楽アカデミーでの仕事個人レッスン継続して行っていた。ベネット伝記書いたローズマリー・ファーマン(Rosemary Firman)によると、彼はカレッジ教え子たちのために「前奏曲練習曲 Preludes and Lessons」を作曲したという。この一連の練習曲集全ての調性用いて書かれており、1853年出版された後20世紀に至るまで音楽科学生広く使用されていた。1903年出版されベネット人物紹介の中でF.G.エドワーズEdwards)はこう記している。 ピアノ教師としての生活は需要がありすぎたため、ベネット作曲割く時間をほとんど残せなくなってしまった。日々レッスン漬け毎日繰り返しうんざりしていた彼は、おそらく休日除いて自分想像女神問いかけることをしたがらなくなっていき、ついには音楽から逃れられることに喜びさえ抱いたことだろう。しかし彼はピアノ演奏続けなければならなかった。1曲もしくはそれ以上協奏曲弾いていた管弦楽団定期演奏会加え毎年のように「古典室内楽演奏会」や「古典ピアノ音楽演奏会」などのいくつも催し行っていたからである。こうした12年に及ぶ数多く芸術性の高い音楽活動設けられプログラムから、今日の我々はベネット洗練された折衷的な趣味窺い知ることが出来る。例を挙げると、バッハチェンバロ協奏曲ヴァイオリン協奏曲平均律クラヴィーア曲集からの抜粋目新しい作品群偉大な巨匠らの他の有名でない作品などが、ハノーヴァー・スクエア・ルーム(Hanover Square Rooms)の耳の肥えた聴衆のためにあつらえられた。彼のピアニストとして愛らしいタッチ詩的な直感添え声楽曲傑作例えベートーヴェンの「遥かなる恋人にのような)が、このような実に楽しい午後音楽ひと時彩り趣き与えていた。 教師ピアニストとして仕事要求応えねばならなかった以外にも、ベネット大規模作品作曲長く身を引いてしまう理由になった思われる要因いくつかある。1847年メンデルスゾーン死に極めて大きな衝撃受けたのだ。スタンフォードによるとこれがベネットには「癒しがたい喪失感」となり 、翌年に彼はそれまで多く自作発表して成功収めていたロイヤル・フィルハーモニック協会との親密な絆を断ち切ってしまったのだった。この離縁には協会指揮者であったミカエル・コスタ(Michael Costaen))との意見不一致もやや影響している。両者互いに非協力的態度激し争いへと発展していたのであるベネット協会自分支援しなかったことに愛想を尽かし辞職した。さらにベネットやる気を殺いでいたのには、英国音楽愛好家幾人かの代表的な批評家が、英国音楽家ドイツ音楽家同様に偉業達成できるという可能性を、頑として認めようとしなかったこともあるだろう。元々は同じよう見方をしていたライプツィヒ市民も、すぐに味方となったのにである。1907年出版ベネット伝記では、彼の息子ベネット序曲に関するイギリスドイツ論評並べている。ロンドン批評家であるウィリアム・エイルトン(William Ayrton)の評はこうである。 太鼓鳴らし方、続くトロンボーントランペット咆哮による音の大砲発射は、我々皆に南国台風を耳にしているのだと思わせるようなものであった。(中略)したがって聡明将来有望若者彼に会って何でもほどほど励まし言えばよいが、分別のある真の友なら彼に今の作品無駄な骨折りにしかなっていないということ知らせてやったのではないかシューマンの評は対照的である。 序曲魅力的である。事実シュポーアメンデルスゾーンを別としたら、他のいかなる現役作曲家ならベネットのように完璧な書法をもって作品あのような柔和さ優美な色合い添えることが出来だろうか全体完璧さ中にあって、我々は彼が耳にしてきたあらゆる巨匠音色許し忘れのである。そして私はこの作品ほど、彼が自分をさらけ出したことはいまだかつてなかったように思う。毎小節ごとの試み、なんと堅固で、それでいて始まりから終わりまでが繊細に綾なしていることだろうか

※この「演奏家、教師として」の解説は、「ウィリアム・スタンデール・ベネット」の解説の一部です。
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