演奏家、教師として
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「ウィリアム・スタンデール・ベネット」の記事における「演奏家、教師として」の解説
1843年にロンドンに戻ったベネットは、翌年海軍ジェームズ・ウッド中佐の娘であるメアリ・アン・ウッド(1824 - 1862)と結婚した。作曲活動は多忙を極めた教職、音楽管理業務により後回しにならざるを得なかった。ヘンリー・ハドウは1907年にこう記している。「彼はイングランドへの帰国後20年近くの間、数曲の歌曲、賛美歌、ピアノ曲のみしか作曲しなかった。この時期の彼にまつわることといえば、教職、編纂、管理業務に追われていたという話くらいしか見当たらない。」 ベネットは1842年より、ロンドンのロイヤル・フィルハーモニック協会の指揮者となった。彼はメンデルスゾーンやルイ・シュポーアを協会の管弦楽団と協演してくれるよう説得し、公演を満員として収入を増やし、協会を財政危機から救うのに貢献した。1842年には、同管弦楽団はスコットランド交響曲として知られるメンデルスゾーンの「交響曲第3番」を作曲者自身の指揮でロンドン初演している。これはライプツィヒでの世界初演の2ヵ月後のことであった。メンデルスゾーンは1844年にも協会の当期最後の6回の演奏会で指揮台に上がっており、自作やベネット作品など他の多くの作曲家の作品を取り上げた。 1843年にエディンバラ大学の音楽科教授のポストが空席となった。メンデルスゾーンの強い勧めもあり、ベネットはそこに応募することにした。メンデルスゾーンは学長にこう書き送った。「応募者に代わり、私が学長殿にその多大な影響力を行使していただきたくお願い申し上げます。応募者のスタンデール・ベネット氏はあらゆる点でその職に就く価値ある人物と言え、彼の芸術分野ならびに国内において真に異彩を放っており、また存命の音楽家の中でも最良かつ最高の才能を持つ一人であると考えます。」しかしながら、このような後援の甲斐もむなしく、ベネットの応募は失敗に終わった。 1848年5月、クイーンズ・カレッジ開校に伴い、ベネットは開校講義を行い職員として加わったが、一方で王立音楽アカデミーでの仕事と個人レッスンは継続して行っていた。ベネットの伝記を書いたローズマリー・ファーマン(Rosemary Firman)によると、彼はカレッジの教え子たちのために「前奏曲と練習曲 Preludes and Lessons」を作曲したという。この一連の練習曲集は全ての調性を用いて書かれており、1853年に出版された後20世紀に至るまで音楽科の学生に広く使用されていた。1903年に出版されたベネットの人物紹介の中でF.G.エドワーズ(Edwards)はこう記している。 ピアノ教師としての生活は需要がありすぎたため、ベネットは作曲に割く時間をほとんど残せなくなってしまった。日々のレッスン漬けの毎日の繰り返しにうんざりしていた彼は、おそらく休日を除いて自分の想像の女神に問いかけることをしたがらなくなっていき、ついには音楽から逃れられることに喜びさえ抱いたことだろう。しかし彼はピアノ演奏を続けなければならなかった。1曲もしくはそれ以上の協奏曲を弾いていた管弦楽団の定期演奏会に加え、毎年のように「古典室内楽演奏会」や「古典ピアノ音楽演奏会」などのいくつもの催しを行っていたからである。こうした12年に及ぶ数多くの芸術性の高い音楽活動で設けられたプログラムから、今日の我々はベネットの洗練された折衷的な趣味を窺い知ることが出来る。例を挙げると、バッハのチェンバロ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、平均律クラヴィーア曲集からの抜粋と目新しい作品群、偉大な巨匠らの他の有名でない作品などが、ハノーヴァー・スクエア・ルーム(Hanover Square Rooms)の耳の肥えた聴衆のためにあつらえられた。彼のピアニストとしての愛らしいタッチが詩的な直感に華を添え、声楽曲の傑作(例えばベートーヴェンの「遥かなる恋人に」のような)が、このような実に楽しい午後の音楽のひと時に彩りと趣きを与えていた。 教師、ピアニストとしての仕事の要求に応えねばならなかった以外にも、ベネットが大規模作品の作曲を長く身を引いてしまう理由になったと思われる要因がいくつかある。1847年のメンデルスゾーンの死に極めて大きな衝撃を受けたのだ。スタンフォードによるとこれがベネットには「癒しがたい喪失感」となり 、翌年に彼はそれまで多くの自作を発表して成功を収めていたロイヤル・フィルハーモニック協会との親密な絆を断ち切ってしまったのだった。この離縁には協会の指揮者であったミカエル・コスタ(Michael Costa (en))との意見の不一致もやや影響している。両者の互いに非協力的な態度は激しい争いへと発展していたのである。ベネットは協会が自分を支援しなかったことに愛想を尽かし、辞職した。さらにベネットのやる気を殺いでいたのには、英国の音楽愛好家や幾人かの代表的な批評家が、英国の音楽家もドイツの音楽家同様に偉業を達成できるという可能性を、頑として認めようとしなかったこともあるだろう。元々は同じような見方をしていたライプツィヒ市民も、すぐに味方となったのにである。1907年出版のベネットの伝記では、彼の息子がベネットの序曲に関するイギリスとドイツの論評を並べている。ロンドンの批評家であるウィリアム・エイルトン(William Ayrton)の評はこうである。 太鼓の鳴らし方、続くトロンボーンとトランペットの咆哮による音の大砲の発射は、我々皆に南国の台風を耳にしているのだと思わせるようなものであった。(中略)したがって、聡明で将来有望な若者は彼に会って何でもほどほどな励ましを言えばよいが、分別のある真の友なら彼に今の作品は無駄な骨折りにしかなっていないということを知らせてやったのではないか。 シューマンの評は対照的である。 序曲は魅力的である。事実、シュポーアとメンデルスゾーンを別としたら、他のいかなる現役の作曲家ならベネットのように完璧な書法をもって、作品にあのような柔和さと優美な色合いを添えることが出来るだろうか。全体の完璧さの中にあって、我々は彼が耳にしてきたあらゆる巨匠の音色を許し忘れるのである。そして私はこの作品ほど、彼が自分をさらけ出したことはいまだかつてなかったように思う。毎小節ごとの試み、なんと堅固で、それでいて始まりから終わりまでが繊細に綾なしていることだろうか!
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