演奏史・上演史
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1913年には、前述の初演を含めパリで4回、ロンドンで4回上演されたが、大混乱となったのは最初の1回のみで、2回目の公演以降は大きな騒乱が起こることはなかった。翌1914年4月にシャンゼリゼ劇場で行われた演奏会形式での再演(指揮:モントゥー)の大成功により、『春の祭典』は楽曲としての評価を確立した。その後、ロンドンやニューヨークでも高い評価を得てオーケストラのレパートリーとして定着した。1963年5月29日には、初演者ピエール・モントゥー指揮ロンドン交響楽団による『春の祭典50年記念コンサート』が、ロンドン、ロイヤル・アルバート・ホールで開催された。 一方、初演の4ヶ月後に南米で電撃結婚をしたニジンスキーがディアギレフから解雇されたため、『春の祭典』は8回(ゲネプロを含めれば9回)上演されただけでバレエ・リュスのレパートリーから外された。その後、バレエ・リュスでは1920年に『春の祭典』の再演が行われることになったが、誰一人としてニジンスキーの複雑な振付を覚えている者がいなかったため、新たにレオニード・マシーンが振付を担当した。マシーンは古いイコンや木版画を研究し、ストラヴィンスキーによるアドヴァイスを受け、単純な農民の輪舞をもとにして振付けた。エルネスト・アンセルメの指揮によるバレエ再演は、生贄の乙女を当時24歳のリディヤ・ソコローヴァ(英語版)が演じ、大喝采を浴びた。この頃のディアギレフは財政難に苦しんでおり、オーケストラに莫大な人件費がかかる『春の祭典』の再演が可能だったのは、この年の夏に知り合ったばかりのココ・シャネルから30万フランもの援助を受けたおかげであった。 この「マシーン版」は1930年にフィラデルフィアでマーサ・グレアム主演によって上演されたほか、ミラノ・スカラ座(1948年)、スウェーデン・ロイヤル・バレエ(1956年)などで再演が繰り返された。 ニジンスキー、マシーンの後、『春の祭典』は多くの振付師によって取り上げられ、ボリス・ロマノフ(Boris Romanov)版(1932年)、レスター・ホートン(lester horton)版(1937年)、マリー・ヴィグマン版(1957年)、モーリス・ベジャール版(1959年)、ケネス・マクミラン版(1962年)、ピナ・バウシュ版(1975年)、マーサ・グレアム版(1984年)など、多くの版が作られて現在に至っている。中でもベジャールによるものは傑作として知られている。 一方、完全に忘れられたニジンスキーによる初演の振付は、1979年から8年かけてアメリカ合衆国の舞踏史学者のミリセント・ホドソン(Millicent Hodson)と美術史家ケネス・アーチャー(Kenneth Archer)の夫妻によって、現存していた資料(特にヴァランティーヌ・グロス(英語版)によるスケッチ)やランベール(振付の書き込みを入れていた作曲者の自筆譜のコピーを提供)など関係者の証言などから復元され、1987年にジョフリー・バレエ団によって復活上演された。現在ではパリ・オペラ座の定番となっている。 1953年にピエール・ブーレーズは、論文『ストラヴィンスキーは生きている』において、この作品の斬新な作曲技法を解明するとともに、自ら演奏・録音を行い、この曲の解釈に一石を投じた。 ただオーケストラ付きのバレエ版の上演は5管編成の版しかないので、非常に予算がかかりオーケストラピットもそんなに入れないのでめったに生で上演されることはない。日本ではほとんどが録音による上演である。
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