生い立ちとパレスチナでの生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 20:39 UTC 版)
「ダヴィド・ベン=グリオン」の記事における「生い立ちとパレスチナでの生活」の解説
ベン=グリオンはダヴィド・グリューン (David Grün) としてポーランドのプロニスク(当時ロシア帝国領)で生まれた。ワルシャワ大学に在学中、東ヨーロッパでの反ユダヤ主義の流行と、ユダヤ人の虐殺(ポグロム)に衝撃を受け、彼は熱烈なシオニストおよび社会主義者としてポアレ・ツィオン運動の指導者となった。 1906年9月7日に13人の仲間と共にパレスチナのヤッフォへ移り住む。パレスチナでは最初、オレンジ農業などを行っていたが、僚友イツハク・ベンツビらが参加していたハショメルHaShomer(パレスチナ入植者による自警組織)に志願し、行動するようになる。1912年にベンツビとともにイスタンブール大学で法律を学ぶためオスマン帝国のイスタンブールへ移る。 彼は最初労働シオニストの新聞『アハドゥト(労働)』で編集部員として働き、政治活動を始めると共にヘブライ語の名前ベン=グリオン (דוד בן גוריון) を使い始めた。この名は中世の歴史家ヨセフ・ベン・グリオン(Yosef ben Gurion)から取られた。 しかし、シオニスト会議の出席者名簿の中に2人の名前を見つけたジェマル・パシャによって、オスマン帝国統治下のパレスチナにおける政治活動を理由に、オスマン帝国を永久追放されることが決まった。拘束期間中は、学生であったこともあり、丁重に扱われたという。 1915年にニューヨークに移住し、後の妻となるロシア生まれのパウラ・ムンワイスと出会う。彼らは1917年に結婚する。彼らの間には3人の子供がいた。1917年11月2日に発せられたバルフォア宣言も米国で一報を受けている。1918年になると、イギリス陸軍のユダヤ人部隊に志願した。一家は第一次世界大戦後イギリスの委任統治領となったパレスチナに帰還した。 ベン=グリオンは後に、当時のパレスチナでの生活について「自力で土地を開拓しなければ、土地は我々のものにならないので、ユダヤ人の村でアラブ人が働くのは危険だと考えていた。だが、我々はそこでアラブ人と衝突したことは一度もなく、アラブ人の憎しみを買うこともなかった」と書いている。
※この「生い立ちとパレスチナでの生活」の解説は、「ダヴィド・ベン=グリオン」の解説の一部です。
「生い立ちとパレスチナでの生活」を含む「ダヴィド・ベン=グリオン」の記事については、「ダヴィド・ベン=グリオン」の概要を参照ください。
- 生い立ちとパレスチナでの生活のページへのリンク