生い立ちと出家・授戒とは? わかりやすく解説

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生い立ちと出家・授戒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 20:33 UTC 版)

法然」の記事における「生い立ちと出家・授戒」の解説

長承2年1133年4月7日美作国久米現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使漆間時国と、母秦氏君(はたうじのきみ)清刀自の子として生まれる。生誕地は、誕生寺出家した熊谷直実建立したとされるになっている。 『四十八巻伝』(勅伝)などによれば保延7年1141年9歳のとき、土地争論関連し明石源内武者貞明が父に夜討しかけて殺害してしまうが、その際の父の遺言によって仇討ち断念し菩提寺院主であった母方叔父僧侶・観覚のもとに引き取られた。その才に気づいた観覚は、出家のための学問授け当時仏教最高学府であった比叡山での勉学勧めたその後天養2年1145年)、比叡山延暦寺登り源光師事した源光自分ではこれ以上教えることがないとして、久安3年1147年)に同じく比叡山皇円の下で得度し天台座主行玄戒師として授戒受けた久安6年1150年)、皇円のもとを辞し比叡山黒谷別所移り叡空を師として修行して戒律護持する生活を送ることになった。「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、このとき、18歳法然房という房号を、源光叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。したがって法然の僧としての正式な名は法然房源空である。法然は「智慧第一法然房」と称され保元元年1156年)には京都東山黒谷出て清凉寺京都市右京区嵯峨)に七日参篭し、そこに集まる民衆見て衆生救済について真剣に深く考えた。そして醍醐寺京都市伏見区醍醐東大路町)、次いで奈良遊学し法相宗三論宗華厳宗学僧らと談義した。 これに対して法然上人伝記』(醍醐寺本)「別伝記」では、観覚に預けられていた法然15歳になった久安3年1147年)に、父と師に対して比叡山に登って修行をしたい旨を伝えその際父から「自分には敵がいるため、もし登山後に敵に討たれたら後世を弔うように」と告げられ送り出された。その後比叡山叡空の下で修行中に父が殺害されたことを知ったとされるまた、法然弟子弁長著した『徹選択本願念仏集』(巻上)の中に師法然の法言として「自分世人身内)の死別とはさしたる因縁もなく、法爾法然道心発したので師(叡空)から法然の号を授けられた」と聞いたことを記しており、父の死法然出家無関係であるとしている。

※この「生い立ちと出家・授戒」の解説は、「法然」の解説の一部です。
「生い立ちと出家・授戒」を含む「法然」の記事については、「法然」の概要を参照ください。

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