伝承・逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/11 03:06 UTC 版)
昔、水流が豊かな巴波川はしばしば氾濫し、そのたびこの橋が流されて人々は難儀した。そこで、この橋の架け替えの際に美少女を人柱にし、川の神に祈ったところ、水流は静まり、橋も流されなくなった。ところがそれからというもの、街のどの家にも子供が生まれなくなり、人柱となった少女の霊が成仏できないでいることが分かった。手厚く供養を行った結果、川の中から少女を背中に乗せた大うなぎが現れ、空へと舞い上がっていった。それからは再び子供が生まれるようになり、誰からともなくこの橋を『幸来橋』と呼ぶようになったと言われる。 慶応3年(1867年)11月、西郷隆盛が下野路へ派遣した浪士たちによる撹乱部隊が出流山で挙兵した(出流山事件)。その後、浪士のうち高橋亘・山本鼎(のちの西村謹吾)・大谷国次(国定忠治の息子)ら数人は栃木宿の栃木陣屋に軍資金を要求しに来たが、脇本陣押田屋源兵衛方で関東取締出役・渋谷鷲郎配下の木村喜蔵・宮内啓之助(左右平とも)・望月善一郎らに襲撃され、5名を失った。これを聞いた副将・西山尚義(通称は謙之助)は栃木宿に向かい(事件を知らず、高橋らが帰らないのを心配して行ったとも言われる)、幸来橋の木戸を入ったところ、陣屋を預かっていた善野司率いる町民兵に襲われ、討ち死にしたという。浪士たちは付近各所での戦闘を経て鎮圧されたが、この事件がのちに江戸薩摩藩邸の焼討事件につながり、西郷の目論見どおり戊辰戦争の引き金を引くこととなった。
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