大阪城での官吏の大憤激
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)
「鳥羽・伏見の戦い」の記事における「大阪城での官吏の大憤激」の解説
28日(1868年1月22日)、江戸薩摩藩邸の焼討事件の報が大坂に届く[要出典]と、慶喜の周囲では「薩摩討つべし」の声が高まる。 慶喜は大阪城で物情の鎮静化につとめていたが、小御所会議(王政復古クーデター)での辞官納地の通達以来、幕臣の激昂が甚だしくなっており、そこでさらに薩摩藩士が家康以来徳川宗家(将軍家)の本拠で主城を構えていた江戸で市中への放火等の騒擾事件(江戸薩摩藩邸の焼討事件)を起こすと、庄内藩士らによる治安維持のための鎮圧戦が始まった。老中・板倉勝静は江戸薩摩藩邸の焼討事件について憂慮し、「焼き討ちする様な事は以ての外だ。上方(京阪地方)も江戸もひたすら静まっていて、薩摩藩につけいる隙を与えないことが肝要でござる」と慎重姿勢を崩さなかった。しかし大阪城のなかでは上司も下士も今にも暴発しそうな勢いが誰にもほぼ制御できなくなり、老中で丹波亀山藩主の松平信義は「令状を出して、大阪を徘徊する薩摩人(鹿児島人)1人を斬るごとに15金を与えよう」との公議を出すに至った。慶喜はこれを聴くと、無謀な議論で、血気の小勇(蛮勇)にすぎないと、幕命による大阪からの鹿児島人抹殺の企てを制止した。
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