江戸落語の隆盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 20:10 UTC 版)
19世紀前葉の文化・文政年間(1804年-1830年)には娯楽としての江戸落語が隆盛を極めた。『嬉遊笑覧』によれば、文化12年(1815年)の頃、江戸の寄席は75軒であったが、その10年後の文政末期には江戸に125軒もの寄席があったといわれる。庶民の娯楽生活のなかで寄席の占める割合は確実に高まってきたことがうかがわれる。 そうしたなか、花形落語家として後世に名をのこす名人が何人かあらわれた。役者の身振りをまねるのが得意だった初代三遊亭圓生は、鳴り物を入れて、芝居がかりとなる芝居噺を始めた。また、武士出身で浄瑠璃音楽のひとつ「常磐津」の太夫となった初代船遊亭扇橋は、落語に転身したのちも浄瑠璃のいろいろな節調を語り分けるのが巧みなところから、音曲噺を始めた。さらに、初代林屋正蔵は、仕掛けや人形を用いる怪談噺を始め、「怪談の正蔵」と称されて人気を博した。 圓生・扇橋・正蔵はいずれも上述の初代可楽の弟子であった経歴を有しており、かれら自身もまた多数の門人を育てた。同じ可楽門下で「可楽十哲」のひとりといわれる初代朝寝房夢羅久は、頓才よりも人情の表現にすぐれ、人情噺を初めて演じ、「人情続き噺の祖」といわれた。 この時期にはまた、現代では「色もの」といわれる各種の演芸もさかんになった。音曲を得意とした初代扇橋の弟子であった都々一坊扇歌(初代)は、三味線を弾きながら都々逸を歌い、人気を博した。また、可楽門下の三笑亭可上は、さまざまな表情を描いた目の部分だけの仮面をかけて人物を描き分ける「百眼(ひゃくまなこ)」という芸を披露した。 可楽門下の人々の亭号には、名跡が絶えてしまったものもあるが、曲折を経ながらも今日まで系統の守られているものも少なくなく、また、三遊亭圓生の三遊派からは金原亭、司馬、三升亭(のち三升家)、船遊亭扇橋(扇派)からは麗々亭、春風亭、柳亭、柳家などが分かれた。これは、明治時代の柳・三遊の二派体制へとつながっている。
※この「江戸落語の隆盛」の解説は、「江戸落語」の解説の一部です。
「江戸落語の隆盛」を含む「江戸落語」の記事については、「江戸落語」の概要を参照ください。
- 江戸落語の隆盛のページへのリンク