江戸芝蘭堂のオランダ正月とは? わかりやすく解説

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江戸芝蘭堂のオランダ正月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 08:07 UTC 版)

オランダ正月」の記事における「江戸芝蘭堂のオランダ正月」の解説

江戸時代中期活躍した通詞吉雄耕牛(幸左衛門)の自宅は、2階オランダから輸入され家具配して阿蘭陀坐敷」と呼ばれており、庭園オランダ渡り動植物にあふれ、長崎名所となっていた。通詞以外の全国蘭学者多く師事した耕牛の家では、やはり太陽暦元日合わせオランダ正月催されていた。江戸蘭学者指導的な地位にあった大槻玄沢も、この吉雄家洋間オランダ正月参加して感銘受けた歴代オランダ商館長カピタン)は定期的に江戸へ参府することが義務づけられていたが、寛政6年1794年)のヘイスベルト・ヘンミーGijsbert Hemmij)の江戸出府オランダ人初め対談した大槻玄沢は、これを機にこの年の閏11月11日西暦1795年1月1日に当たることから、京橋区水谷町にあった自宅の塾芝蘭堂に、多く蘭学者オランダ風物の愛好家招き新元会(元日祝宴)を催したロシアへ漂流した大黒屋光太夫なども招待されていた。 これが江戸におけるオランダ正月嚆矢となる。記念すべき第1回江戸オランダ正月津藩市川岳山が描く『芝蘭堂新元会図』で知られ出席者による寄せ書きがされており、当日楽しげ様子が十分伺える。大きなにはワイングラスフォークナイフなどが置かれ部屋には洋式絵画飾られている。出席者は他に玄沢の師でありすでに『解体新書』の翻訳で名を上げていた杉田玄白や、玄沢の弟子宇田川玄随稲村三伯などがいた。 オランダ正月背景には、8代将軍徳川吉宗による洋書輸入一部解禁以降蘭学研究次第に盛んとなり、この頃には蘭癖称されオランダ文化愛好家増加していたことがある蘭癖らの舶来趣味加え新し学問である蘭学一定の市民権得ていたことを受け、日本の伝統正月行事に把われることなく蘭学者たちが親睦深め、自らの学問の隆盛願い最新情報交換を行う集まりとして、以後毎年行われるようになっていった。 ただし、当時使用されていた寛政暦などの太陰太陽暦西洋グレゴリオ暦とのずれは毎年異なっていたため、便宜上翌年以降冬至太陽暦では毎年ほぼ同じ日であり、太陽太陰暦計算にも使用される)から数えて11日目オランダ正月賀宴開催するのが恒例となった。玄沢の子大槻磐里没する天保8年1837年)まで計44開かれたという。 一方日本祝宴開いた1795年1月オランダ(ネーデルラント連邦共和国)では、その国土フランス革命軍に占領されオランダ国滅亡した月である。同時にオランダ国であった土地で、フランス衛星国バタヴィア共和国建国宣言した。そして、オランダ国は、1815年ネーデルラント連合王国建国するまでの20年間、地球上存在していなかった。すなわち、蘭癖日本人は、オランダ滅亡同時に存在しないオランダ正月祝い始めたことになる。

※この「江戸芝蘭堂のオランダ正月」の解説は、「オランダ正月」の解説の一部です。
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