江戸芝蘭堂のオランダ正月
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「オランダ正月」の記事における「江戸芝蘭堂のオランダ正月」の解説
江戸時代中期に活躍した通詞吉雄耕牛(幸左衛門)の自宅は、2階にオランダから輸入された家具を配して「阿蘭陀坐敷」と呼ばれており、庭園もオランダ渡りの動植物にあふれ、長崎の名所となっていた。通詞以外の全国の蘭学者も多く師事した耕牛の家では、やはり太陽暦の元日に合わせ、オランダ正月が催されていた。江戸の蘭学者で指導的な地位にあった大槻玄沢も、この吉雄家洋間のオランダ正月に参加して感銘を受けた。 歴代のオランダ商館長(カピタン)は定期的に江戸へ参府することが義務づけられていたが、寛政6年(1794年)のヘイスベルト・ヘンミー(Gijsbert Hemmij)の江戸出府でオランダ人と初めて対談した大槻玄沢は、これを機にこの年の閏11月11日が西暦で1795年1月1日に当たることから、京橋区水谷町にあった自宅の塾芝蘭堂に、多くの蘭学者やオランダ風物の愛好家を招き、新元会(元日の祝宴)を催した。ロシアへ漂流した大黒屋光太夫なども招待されていた。 これが江戸におけるオランダ正月の嚆矢となる。記念すべき第1回の江戸オランダ正月は津藩の市川岳山が描く『芝蘭堂新元会図』で知られ、出席者による寄せ書きがされており、当日の楽しげな様子が十分伺える。大きな机にはワイングラス、フォーク、ナイフなどが置かれ、部屋には洋式絵画が飾られている。出席者は他に玄沢の師でありすでに『解体新書』の翻訳で名を上げていた杉田玄白や、玄沢の弟子の宇田川玄随、稲村三伯などがいた。 オランダ正月の背景には、8代将軍徳川吉宗による洋書輸入の一部解禁以降、蘭学研究が次第に盛んとなり、この頃には蘭癖と称されたオランダ文化の愛好家が増加していたことがある。蘭癖らの舶来趣味に加え、新しい学問である蘭学が一定の市民権を得ていたことを受け、日本の伝統的正月行事に把われることなく、蘭学者たちが親睦を深め、自らの学問の隆盛を願い、最新情報の交換を行う集まりとして、以後も毎年行われるようになっていった。 ただし、当時使用されていた寛政暦などの太陰太陽暦と西洋のグレゴリオ暦とのずれは毎年異なっていたため、便宜上、翌年以降は冬至(太陽暦では毎年ほぼ同じ日であり、太陽太陰暦の計算にも使用される)から数えて第11日目にオランダ正月の賀宴を開催するのが恒例となった。玄沢の子・大槻磐里が没する天保8年(1837年)まで計44回開かれたという。 一方、日本で祝宴を開いた1795年1月のオランダ(ネーデルラント連邦共和国)では、その国土がフランス革命軍に占領され、オランダ国が滅亡した月である。同時に、オランダ国であった土地で、フランスの衛星国バタヴィア共和国が建国を宣言した。そして、オランダ国は、1815年にネーデルラント連合王国が建国するまでの20年間、地球上に存在していなかった。すなわち、蘭癖の日本人は、オランダ滅亡と同時に存在しないオランダの正月を祝い始めたことになる。
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