稲村三伯とは? わかりやすく解説

いなむら‐さんぱく【稲村三伯】

読み方:いなむらさんぱく

[1758〜1811江戸後期蘭学者鳥取藩医。因幡(いなば)の人。大槻玄沢(おおつきげんたく)に師事し対訳辞書波留麻和解(ハルマわげ)」(江戸ハルマ)を編纂(へんさん)。のち、海上随鴎(うながみずいおう)と改名


稲村三伯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/06 00:30 UTC 版)

稲村 三伯[1](いなむら さんぱく、宝暦8年(1758年) - 文化8年1月16日1811年2月9日))は、江戸時代後期の蘭学者。幼名は龍介[2]、名は[2]、字は白羽[2]。号は原昆堂白髪書生[2]

石井庄助、宇田川玄真らの協力で、ハルマの蘭仏辞典を基に寛政8年(1796年日本最初の蘭和辞典『ハルマ和解』を完成させる。

生涯

現在の鳥取市川端に生まれる[2]。町医・松井如水の三男[2]明和7年(1770年藩医・稲村三杏の養子に入る[2]

明和8年(1771年藩校・尚徳館に学ぶ[3]安永5年(1776年)福岡の亀井南冥について医学と儒学を学び、更に長崎に出て蘭方を学んだ[2]天明元年(1781年)、三杏の没後に藩医を継いだが、その後も京都で医学修業した[2]

その後、大槻玄沢の『蘭学階梯』を読み発奮し、寛政4年(1792年)に江戸に出て、藩邸に勤めながら玄沢の門に入り、蘭学を修業した[2]。寛政8年(1796年)、長崎通詞石井恒右衛門や同門の桂川甫周宇田川玄真らの協力を得て、日本で最初の蘭和辞書『ハルマ和解』を完成し、刊行した[2]

享和2年(1802年)、弟大吉の借銭の問題で退藩し、下総海上郡などを遍歴し、名を海上随鴎と改めて医業をした[2]

文化3年(1806年)、京都に出て蘭学塾を開き、京都、大坂の蘭学興隆のもとをつくった[2]

文化8年(1811年)1月16日、54歳で没す[3]。明治44年(1911年)、従四位が追贈された[2][4]

家族

娘の定は中天游の妻。

系譜

稲村家
   
            中天游       
             ┃
            ┏定    
三通━━三杏━━三伯━━┫ 
            ┗元厚      
松井家
      
    ┏維仙
    ┃    
如水━━╋三伯 
    ┃
    ┗大吉      

参考文献

  • 森納 『因伯洋学史話』1993年

脚注

  1. ^ 弟大吉の借財の件で、江戸で退藩し、海上髄鴎と名を改め下総国稲毛村に身を隠した
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『鳥取県大百科事典』64頁
  3. ^ a b 『因伯洋学史話』49頁
  4. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.27

関連項目

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