江戸肥田氏
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武蔵国埼玉郡(榛沢、比企郡)、上総国を知行し、徳川幕府の旗本あるいは幕閣として江戸に居住した。家紋は「丸に桔梗」。菩提寺牛込蒼龍山松源寺(現、下落合松源寺)。 肥田忠頼 - 忠親嫡男、寛永元年(1624年)徳川秀忠に拝謁、小姓組番士となる。武蔵国埼玉郡に400石を知行。慶安3年(1650年)徳川家綱に付属し西城御書院番、小普請となる。 肥田頼次 - 天和2年(1682年)徳川綱吉に拝謁、大番、組頭。 肥田頼時 - 享保2年(1717年)徳川吉宗に拝謁、大番、250石。 肥田十郎兵衛頼常 - 従五位下豊後守3000石。安永5年(1776年)表御右筆、天明4年(1784年)奥右筆、寛政3年(1791年)組頭、同4年(1792年)御勘定吟味役組頭、同10年(1798年)日光東照宮御霊屋普請、寛政11年(1799年)から文化3年(1806年)まで長崎奉行職、天草乱後、治安安定経済復興のため製陶所を設け天草焼、のち亀山焼を作る。在任中、ロシアの外交官ニコライ・レザノフが長崎に来航した際には、遠山景晋と共に事態を無事終息。文化3年(1806年)小普請奉行、作事奉行を歴任。文化7年(1810年)勘定奉行に就任した。文化12年(1815年)西丸留守居となった。 肥田頼存(よりつぐ) - 新三郎、武蔵、上総に500石を領す。
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