江戸肥田氏とは? わかりやすく解説

江戸肥田氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 05:02 UTC 版)

肥田氏」の記事における「江戸肥田氏」の解説

武蔵国埼玉郡榛沢比企郡)、上総国知行し徳川幕府旗本あるいは幕閣として江戸居住した家紋は「丸に桔梗」。菩提寺牛込蒼龍松源寺(現、下落合松源寺)。 肥田忠頼 - 忠親嫡男寛永元年1624年徳川秀忠拝謁小姓組番士となる。武蔵国埼玉郡400石を知行慶安3年1650年徳川家綱付属し西城御書院番小普請となる。 肥田頼次 - 天和2年1682年徳川綱吉拝謁大番組頭肥田頼時 - 享保2年1717年徳川吉宗拝謁大番250石。 肥田十郎兵衛頼常 - 従五位下豊後3000石。安永5年1776年)表御右筆天明4年1784年奥右筆寛政3年1791年組頭、同4年1792年御勘定吟味役組頭、同10年1798年日光東照宮御霊屋普請寛政11年1799年)から文化3年1806年)まで長崎奉行職、天草乱後治安安定経済復興のため製陶所設け天草焼、のち亀山焼作る在任中、ロシア外交官ニコライ・レザノフ長崎来航した際には、遠山景晋と共に事態を無事終息文化3年1806年小普請奉行作事奉行歴任文化7年1810年勘定奉行就任した文化12年1815年西丸留守居となった肥田頼存(よりつぐ) - 新三郎武蔵上総500石を領す。

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