片倉邦憲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/13 18:46 UTC 版)
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| 時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 | 
| 生誕 | 文政元年(1818年) | 
| 死没 | 明治19年(1886年) | 
| 改名 | 三之助(幼名)、景徳、邦憲 | 
| 別名 | 通称:備中、伊豆、小十郎 | 
| 主君 | 伊達慶邦 | 
| 藩 | 陸奥仙台藩 | 
| 氏族 | 白石片倉氏 | 
| 父母 | 片倉宗景 | 
| 兄弟 | 邦憲、片平教成 | 
| 妻 | 伊達宗衡娘・愛姫 | 
| 子 | 景範、氏家景正 | 
片倉 邦憲(かたくら くにのり)は、江戸時代後期の伊達家重臣。通称は備中、伊豆、小十郎。白石片倉氏12代当主。
略歴
文政元年(1818年)、11代当主・片倉宗景の子として誕生。幼名は三之助。諱は初め景徳(かげのり)、のちに仙台藩主伊達斉邦より偏諱を受けて邦憲とした。正室は伊達宗衡の娘愛姫。子は片倉景範(かげのり)。
元治元年(1864年)、父の隠居により家督相続し白石城主となる。
明治元年(1868年)、戊辰戦争の敗戦により、知行1万8000石と代々の居城の白石城を没収され、僅か蔵米55石が支給されることとなる。邦憲は家臣と相談の上で、白石按察府に蝦夷地開拓嘆願書を提出する。明治2年(1869年)、新政府より幌別郡の支配を命じられる。
明治19年(1886年)、旧領白石で病没。
脚注
参考文献
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- 蝦名賢造著「北方のパイオニア」
 
関連項目
     
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固有名詞の分類
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