片倉村廉とは? わかりやすく解説

片倉村廉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/13 18:39 UTC 版)

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片倉村廉
時代 江戸時代中期
生誕 享保12年(1727年
死没 明和5年6月23日1768年8月5日
改名 繁九郎・勇之助(幼名)→景寛(初名)→村廉
別名 通称:小十郎
墓所 宮城県白石市の片倉家廟所
主君 伊達宗村重村
仙台藩
氏族 松前氏白石片倉氏
父母 松前広高
片倉村定
兄弟 松前脩広、村廉、秋保盛昌
伊達吉村娘・郷姫
景義、薫子、村典
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片倉 村廉(かたくら むらかど)は、江戸時代中期の仙台藩伊達家重臣。通称は小十郎。白石片倉家8代当主。

略歴

享保12年(1727年)、仙台藩家老・松前広高の次男として誕生。幼名繁九郎、勇之助。初名は景寛。祖父は3代片倉景長の実弟松前為広。

縁戚の白石領主・片倉村定の養子となる。藩主世子・宗村の遊び相手を務めた。

寛保3年(1743年)、養父の隠居により家督を相続して白石領主となり、藩主・宗村の偏諱を受け「村廉」とを改める。同年、宗村の藩主襲封の御礼言上の際に、江戸城で8代将軍徳川吉宗に拝謁する。同年、宗村に牧場開設の命を受け、翌延享元年(1744年)刈田郡七日原に開設する。寛延元年(1748年)、宗村の妹・郷姫と結婚する。郷姫との間に、一門伊達村倫室となる薫姫を儲けた。宝暦2年(1752年)に正室郷姫が死去する。宝暦4年(1754年)、庶子・景義を嫡子と定めるも、宝暦10年(1760年)に没したため、その弟繁五郎(村典)を嫡子とする。宝暦6年(1756年)、藩主・伊達重村の藩主襲封の御礼言上の際に、将軍吉宗に拝謁する。同年幕府監察使が、白石城を訪れ供応にあたる。

明和5年(1768年)6月23日没。享年42。家督は村典が相続した。墓所は宮城県白石市の片倉家廟所。

代表的な和歌

畏しな道ある御代は花鳥の 色香もおのか時をたかへす(宮城百人一首)

系譜

  • 父:松前広高
  • 母:不詳
  • 養父:片倉村定(1677-1744)
  • 正室:郷姫(?-1752) - 昌子、伊達吉村の娘
  • 側室:不詳
  • 生母不明の子女
    • 男子:片倉景義(?-1760)

参考文献

  • 東京大学史料編纂所「片倉家譜」
  • 東京大学史料編纂所「伊達族譜」
  • 東京大学史料編纂所「伊達世臣家譜」




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