伊達村倫_(涌谷伊達家)とは? わかりやすく解説

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伊達村倫 (涌谷伊達家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 02:34 UTC 版)

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伊達村倫
時代 江戸時代中期
生誕 寛延2年6月19日1749年8月1日
死没 安永5年11月20日1776年12月30日
別名 藤四郎、安芸(通称
戒名 大通院智光道勝大居士
墓所 宮城県遠田郡涌谷町見龍寺
主君 伊達宗村重村
陸奥仙台藩
氏族 伊達氏涌谷伊達家
父母 伊達宗村、橋本氏
伊達村胤
兄弟 霊松院重村、沛姫、愷姫、土井利徳
村倫、認姫、土井利置堀田正敦、瑛姫、せい姫
片倉村廉娘・薫子
茂登
村常
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伊達 村倫(だて むらとも)は、江戸時代中期の武士陸奥国仙台藩一門第四席涌谷伊達家8代(亘理氏26代)当主。

略歴

寛延2年(1749年)、仙台藩6代藩主・伊達宗村の四男として誕生。宝暦3年(1753年11月29日、跡継ぎのなかった伊達村胤の養子となる。宝暦9年(1759年1月7日に養父・村胤が病死したため、同年2月29日に家督を継ぎ、5月3日仙台城に赴いて兄で7代藩主の伊達重村より偏諱を受け村倫と名を改め、安芸(通称)を称する。

宝暦13年(1763年)、坂本胤俊・山寺十左衛門らが謀反を計画するが失敗し、山寺は斬首、坂本は追放となった。明和5年(1768年4月19日白石城主・片倉村廉の娘・薫子を室に迎える。安永2年(1773年)、側室の子・茂登が産まれるが早世する。

安永5年(1776年10月6日、病療養のため、涌谷領から仙台へ戻る。同年11月20日、病死した。享年28。室・薫子も安永6年(1777年5月25日に26歳で病死した。

系譜

偏諱を受けた人物

関連項目

先代:
伊達村胤
涌谷伊達家
8代
次代:
伊達村常



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