館長時代
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「ヘルマン・シュレーゲル」の記事における「館長時代」の解説
1858年、シュレーゲルがその下で33年間仕事をしてきた初代館長のテミンクが亡くなると、彼はその後を継いでライデン自然史博物館第二代館長となった。彼は特に東南アジア方面に興味を持っており、この頃(1857年)に鳥類収集のため17歳の息子のグスタフを中国に送っている。しかし現地に赴いたグスタフは、英国の博物学者ロバート・スウィンホウが先んじてすでに収集活動を行っていたことを知る。また1859年にはやはり鳥類収集のためにハインリッヒ・ベルンシュタイン(Heinrich Agathon Bernstein(1828 - 1865))をニューギニア島に送り、1865年にベルンシュタインが亡くなると、ヘルマン・フォン・ローゼンベルグ(Hermann von osenberg(1817-1888))にその後を継がせた。また、オットー・フィンシュ(1839 - 1917)という若い助手を雇い入れた。『Notes from the Leyden Museum』という科学雑誌を創刊するとともに、『Musèum d'histoire naturelle des Pays-Bas』(1862-1880)という14巻に及ぶ大著も出版した。出版物の図を描かせるためにヨン・ゲラルド・キューレマンス(John Gerrard Keulemans :1842-1912)、ジョセフ・スミット(Joseph Smit: 1836-1929)、ヨーゼフ・ヴォルフ(Joseph Wolf: 1820-1899)という3人の有能な画工も雇っている。彼は画工に博物画を描かせる上での留意点を「博物画10か条」として残しているが、それは今日でも生物画作成において有効なものであるとも言われ、正確精緻な博物画作成への彼の厳しい姿勢がわかる。 このように旺盛な活動を続けた彼であったが、晩年には困難もあった。60歳となる1864年には、妻に先立たれるとともに助手のフィンシュもブレーメンの自然史博物館に移って行った。それは彼を長年支えてきた協力者を私生活と仕事の両面で失うことを意味した。それでも1869年にはA.C.P.Pfeifferという女性と再婚もし、引き続き『Natuurlijke Historie van Nederland (オランダの自然史)』ほかの著作物も出版するなど彼の活動に衰えは見えていない。しかし、いよいよ勢いを増してきた大英博物館の大規模な収集活動の陰で、彼が長年心血を注いできた博物館のコレクションは徐々にその輝きを失い始めていたのであった。 1884年、シュレーゲルはライデンで79歳で没した。
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