金目村
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かなめむら 金目村 |
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廃止日 | 1957年10月1日 |
廃止理由 | 編入合併 金目村、平塚市 → 平塚市 |
現在の自治体 | 平塚市 |
廃止時点のデータ | |
国 | ![]() |
地方 | 関東地方 |
都道府県 | 神奈川県 |
郡 | 中郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 6.12 km2. |
総人口 | 4,003人 (1957年10月1日) |
隣接自治体 | 平塚市、秦野市 |
金目村役場 | |
所在地 | 神奈川県中郡金目村大字南金目字寺島895 |
座標 | 北緯35度21分32秒 東経139度17分19秒 / 北緯35.358889度 東経139.288611度座標: 北緯35度21分32秒 東経139度17分19秒 / 北緯35.358889度 東経139.288611度 |
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金目村(かなめむら)は、神奈川県中郡にかつてあった村である。
現在の平塚市西北部、金目川沿岸の低地と丘陵台地からなっていた。1957年10月1日に平塚市と合併した。
地域
- 片岡(かたおか)
- 北金目(きたかなめ)
- 真田(さなだ:1956年4月-)
- 千須谷(せんずや)
- 広川(ひろかわ)
- 南金目(みなみかなめ)
歴史
村名は、古くは「カナヒ」「カネエ」と呼ばれ、「金日」と表現されたものが字形のみ転化して「金目」となったと考えられている。「カナ」は頑丈さ、立派さを表す美称、「ヒ」は堤防や樋の意味とされる。また他の説には「カナ」は鍛冶関係の土地であることを表し、「メ」は川沿いの集落の意を表すという。
- 1880年 - 南金目堀之内に金目学校開校。
- 1886年5月 - 南金目堀之内宗信寺に三郡共立学校開校。(現在の県立平塚農業高校の前身。県立秦野高校にも繋がる。)
- 1889年4月1日 - 町村制が施行。南金目村、北金目村、片岡村、千須谷村、広川村が合併し大住郡金目村となった。
- 1896年4月1日 - 郡の統合により大住郡と淘綾郡が合併し中郡金目村となる[1]。
- 1906年 - 神奈川県知事周布公平の勧めで金目川の堤に吉野桜数百本を植樹。
- 1910年 - 金目川堤防決壊。北金目、南金目、片岡浸水被害。
- 1912年2月8日 - 金目川河身改修・耕地整理事業起工。(18年1月28日完成。総費用38,782円。)
- 1955年4月15日 - 中郡大根村真田地区を編入[2]。
- 1957年10月1日 - 平塚市に編入合併される[3]。
歴代首長
歴代首長は以下のとおり[4]。
代 | 氏名 | 在任期間 |
? | 猪俣道之輔 | 1889年(明治22年)-? |
? | 猪俣松五郎 | 1904年(明治37年)-?年 |
10 | 森純一 | 1917年(大正6年)-1918年(大正7年) |
11-14 | 猪俣松五郎 | 1918年(大正7年)-1935年(昭和10年) |
18 | 森純一 | 1943年(昭和18年)-?年 |
村役場
1934年(昭和9年)に建設された金目村役場は、1957年(昭和32年)10月の平塚市への合併後に金目出張所や幼稚園として使用された[5]。1967年(昭和42年)に金目観音奉賛会に払い下げられ、金目観音奉賛会館となったが、1987年(昭和62年)12月末に解体された[5]。
現在
現在は平塚市の行政上、金目地区と区分されている。住所には「平塚市南金目」など大字名が使われる。
脚注
関連項目
外部リンク
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秦野市 | ![]() |
平塚市 | ||
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固有名詞の分類
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