藩政改革、始動とは? わかりやすく解説

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藩政改革、始動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/19 07:13 UTC 版)

松平容頌」の記事における「藩政改革、始動」の解説

4代藩主松平容貞長男として誕生寛延3年1750年11月12日家督相続する寛延4年7月1751年)に幕府より国目付として使番秋月種蔭らが派遣された。宝暦6年1756年9月15日、9代将軍・徳川家重御目見する。同年12月18日従四位下に叙位侍従任官し肥後守兼任する宝暦9年初め会津お国入りする。宝暦10年3月22日将軍家重の右大臣転任に伴い上洛し、同年4月25日左近衛権少将転任する。肥後守如元。 これに対し彦根藩主井伊直幸は、焦り抱いて官位昇進熱心に取り組み、容頌も対抗するうになる明和2年1765年)、徳川家康150回忌際し官位昇進狙い幕府日光への使いとなることを申し出るものの、先例にないとして却下される。しかし、明和2年10月15日徳川家基理髪役を務めることになり、直幸と共に左近衛権中将転任する。肥後守如元。また、明和7年1770年12月16日正四位下昇叙左近衛権中将肥後守如元。さらに、安永7年1778年12月16日正四位上昇叙左近衛権中将肥後守如元。 藩主となった頃、会津藩では財政窮乏化して年貢増徴による財政再建図ったが、百姓一揆という反対受けて失敗していた。その上天明の大飢饉により会津藩大被害を受け、財政破綻寸前となる。このような財政再建するため、容頌は自分より6歳年下田中玄宰天明元年1781年)に家老として登用し藩政改革行なおう考えた。しかし玄宰の登用反対する保守派動きや、玄宰自身病気倒れたということもあって、実際に改革始まったのは天明5年1785年)からのことであった。 玄宰は容頌の厚い信任のもとで、天明7年1787年)に藩政改革大綱発表する厳し倹約令華美な風俗取り締まり荒廃した農村復興支配強化殖産興業政策特産品売買奨励教育普及などがそれであった倹約は特に厳しく、容頌もこれに協力するために自らの私的な生活費切り詰め参勤交代における経費なども大幅に削減した農村復興政策においてはそれまで城で命令だけを出していた代官奉行らを直接農村に赴かせて指導に当たらせた。また、均田制導入なども行なっている。特産品売買においてはや漆の専売化、養蚕漆器生産強化などを行なったまた、他国から酒造商人招聘して、会津における特殊な酒を製造し販売したそのほかに朝鮮人参栽培紅花栽培製糸機織川魚養蚕制などにも尽力し寛政5年1793年)には江戸中橋会津藩産物会所創設して、江戸で国産品多く販売し多く利益得た。 これによって財政再建成された。

※この「藩政改革、始動」の解説は、「松平容頌」の解説の一部です。
「藩政改革、始動」を含む「松平容頌」の記事については、「松平容頌」の概要を参照ください。

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