幕末の斉裕
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斉裕は徳川将軍家の一族であったが、幕末の幕政とはある程度の距離を置いていた[要出典]。海軍総裁・陸軍総裁に任命されたが短期間で廃止になったのも、斉裕が幕府とあまり関わりあいたくなかったからだとも言われている[要出典]。斉裕は幕末期、公武合体を目指して京都などに家臣を積極的に送り込んでいる。 しかし、洲本城代の稲田氏(蜂須賀家の筆頭家老)をはじめとする家臣団の多くから公武合体に対して批判的な意見が多く、藩論を統一することができなかった。幕末において徳島藩が名を残すことができなかったのも、藩論統一が成されなかったためと言われている。 重要文化財「紙本墨書阿波国板野郡田上郷延喜二年戸籍残巻」は、斉裕の時代に蜂須賀家が京都で入手したと伝わる。 晩年の慶応3年(1867年)11月には、江戸相撲の本場所・千羽ヶ嶽兵右エ門と國見山半五郎戦の勝負結果を巡って、千羽ヶ嶽や、鬼面山谷五郎(後の第13代横綱),小柳常吉(元関脇)など自身のお抱え力士をボイコットとさせるという大事件を起こした。 慶応4年(1868年)1月3日危篤に陥り、1月6日(鳥羽・伏見の戦い中)、48歳で急死し、跡を次男の茂韶が継いだ。 「勤皇にして佐幕」「開国派にして攘夷論者」の立場のあいまいさが、斉裕を「御内鬱」と記されるような精神状況に追い込み、英明であるが故に精神的な鬱積を酒でまぎらわせ、結果的にアルコール中毒症を患った。大名の臨終が細かく記録されていることは珍しい。 徳川将軍家出身ながら海防や軍制改革など、軍事面においては優秀な功績を残しており、それなりの実行力を持った藩主であった。そのため斉裕が亡くなったとき、幕府側の多くの人物が、その死を惜しんだと言われている。[要出典] 現在に残る斉裕の肖像画として、明治3年の斉昌13回忌・斉裕3回忌法要に際して高野山に納めるべく守住貫魚が描いた「蜂須賀斉昌・斉裕画像」(井伊美術館蔵)や、徳島藩医で斉裕の死も看取った関寛斎が明治35年(1902年)徳島を離れ北海道に渡る際に中山勝哲に描かせた肖像(徳島城博物館蔵)がある。
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