幕末の斉裕とは? わかりやすく解説

幕末の斉裕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 21:01 UTC 版)

蜂須賀斉裕」の記事における「幕末の斉裕」の解説

斉裕は徳川将軍家一族であったが、幕末幕政とはある程度の距離を置いていた[要出典]。海軍総裁陸軍総裁任命されたが短期間廃止になったのも、斉裕が幕府とあまり関わりいたくなかったからだとも言われている[要出典]。斉裕は幕末期公武合体目指し京都などに家臣積極的に送り込んでいる。 しかし、洲本城代の稲田氏蜂須賀家筆頭家老)をはじめとする家臣団多くから公武合体に対して批判的な意見多く藩論統一することができなかった。幕末において徳島藩名を残すことができなかったのも、藩論統一成されなかったためと言われている。 重要文化財紙本墨書阿波国板野郡田上郷延喜二年戸籍残巻」は、斉裕の時代蜂須賀家京都入手したと伝わる。 晩年慶応3年1867年11月には、江戸相撲本場所千羽ヶ嶽兵右エ門國見山半五郎戦の勝負結果巡って千羽ヶ嶽や、鬼面山谷五郎(後の第13代横綱),小柳常吉(元関脇)など自身お抱え力士ボイコットとさせるという大事件起こした慶応4年1868年1月3日危篤に陥り、1月6日鳥羽・伏見の戦い中)、48歳急死し、跡を次男の茂韶が継いだ。 「勤皇にして佐幕」「開国派にして攘夷論者」の立場あいまいさが、斉裕を「御内鬱」と記されるような精神状況追い込み英明であるが故に精神的な鬱積を酒でまぎらわせ、結果的にアルコール中毒症を患った大名臨終細かく記録されていることは珍しい。 徳川将軍家出身ながら海防軍制改革など、軍事面においては優秀な功績残しており、それなりの実行力持った藩主であった。そのため斉裕が亡くなったとき、幕府側の多く人物が、その死を惜しんだと言われている。[要出典] 現在に残る斉裕の肖像画として、明治3年の斉昌13回忌・斉裕3回法要に際して高野山納めるべく守住貫魚描いた蜂須賀斉昌・斉裕画像」(井伊美術館)や、徳島藩医で斉裕の死も看取った関寛斎明治35年1902年徳島離れ北海道に渡る際に中山勝哲に描かせた肖像徳島城博物館)がある。

※この「幕末の斉裕」の解説は、「蜂須賀斉裕」の解説の一部です。
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