幕末の挙母藩
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第4代藩主の政成は近江彦根藩主の井伊直中の五男で、養子として迎えられた。質素倹約に励むなど藩財政の好転に尽くしたが、天候不順や矢作川の氾濫などで芳しい実績は生まれなかった。政成は文政13年(1830年)9月に実弟(直中の八男)政優を養子として迎え、これに藩政を委ねて隠居したが、この縁組は実家の井伊家からの持参金目当てであり、挙母藩の借財整理に充てられたと伝わる。ちなみに大老の井伊直弼は政成や政優の弟にあたる(直中の十四男)。 天保7年(1836年)9月、現在の松平地区で大規模な百姓一揆「加茂一揆」が発生。飢饉に苦しむ農民が年貢の減免や市場価格の抑制を求めて起こした一大農民一揆で、1万人以上の農民が参加する大騒動に発展した。藩主の政優は鉄砲隊を組織して矢作川の堤防で農民を撃退し、一揆を武力鎮圧した。「鴨の騒立(かものさわだち)」という別名でも知られるこの一揆は東海地方有数の規模で、天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱にも影響を与えることとなった。 嘉永4年(1851年)、政優が嗣子なく死去すると、やはり井伊家から政文(政成・政優の甥)が養子として迎えられ第6代藩主となった。安政元年(1854年)、挙母地方を大地震が襲ったと記録されている。安政5年(1858年)、政文が死去し、嫡男の文成が4歳で第7代藩主となった。これは内藤家歴代藩主の中で、家督が父子相続された唯一の例である。安政6年(1859年)、洋式の軍政(英式銃陣法)が取り入れられ習練が行われた。慶応3年(1867年)には全国的に流行していた「ええじゃないか」が挙母でも起きている。 慶応4年(1868年)2月に戊辰戦争がはじまると、挙母藩は藩主が領国不在のまま新政府に対して恭順した。3月には藩主・文成が帰藩し、4月に官軍の東海道軍人馬兵食賄方として、駿府警衛のため一小隊を派遣する。6月に再度警衛に当たった。 同年7月、藩主・文成は京の御所へ参内し、勤王の意をあらためて表した。明治2年(1869年)、文成は挙母藩知事に就任した。明治3年(1870年)、挙母藩が廃止され挙母県になった。幕末時、士族は100戸、卒族は200戸を数えた。 内藤文成は、後に隠居して明治34年(1901年)まで存命した。文成の養子として家督を継いだ内藤政共(政成の子)は華族令によって子爵に叙された。
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