幕末の挙母藩とは? わかりやすく解説

幕末の挙母藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 15:12 UTC 版)

挙母藩」の記事における「幕末の挙母藩」の解説

4代藩主の政成は近江彦根藩主井伊直中の五男で、養子として迎えられた。質素倹約に励むなど藩財政好転尽くしたが、天候不順矢作川氾濫などで芳しい実績生まれなかった。政成は文政13年1830年9月実弟直中八男)政優を養子として迎え、これに藩政委ねて隠居したが、この縁組実家井伊家からの持参金目当てであり、挙母藩借財整理充てられたと伝わる。ちなみに大老井伊直弼は政成や政優の弟にあたる(直中十四男)。 天保7年1836年9月現在の松平地区大規模な百姓一揆加茂一揆」が発生飢饉苦し農民年貢減免市場価格抑制求めて起こした一大農民一揆で、1万人以上の農民参加する大騒動発展した藩主の政優は鉄砲隊組織して矢作川堤防農民撃退し一揆武力鎮圧した。「騒立(かものさわだち)」という別名でも知られるこの一揆東海地方有数規模で、天保8年1837年)の大塩平八郎の乱にも影響与えることとなった嘉永4年1851年)、政優が嗣子なく死去すると、やはり井伊家から政文(政成・政優の甥)が養子として迎えられ6代藩主となった安政元年1854年)、挙母地方大地震襲った記録されている。安政5年1858年)、政文が死去し嫡男文成4歳第7代藩主となった。これは内藤家歴代藩主の中で、家督父子相続され唯一の例である。安政6年1859年)、洋式軍政英式陣法)が取り入れられ習練が行われた。慶応3年1867年)には全国的に流行していた「ええじゃないか」が挙母でも起きている。 慶応4年1868年2月戊辰戦争がはじまると、挙母藩藩主領国不在のまま新政府に対して恭順した。3月には藩主文成が帰藩し、4月官軍東海道軍人馬兵食賄方として、駿府警衛のため一小隊派遣する6月再度警衛当たった同年7月藩主文成は京の御所参内し勤王の意をあらため表した明治2年1869年)、文成挙母藩知事就任した明治3年1870年)、挙母藩廃止され挙母県になった幕末時、士族100戸、卒族200戸を数えた内藤文成は、後に隠居して明治34年1901年)まで存命した。文成養子として家督継いだ内藤政共(政成の子)は華族令によって子爵叙された。

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