幕末の変革と気吹舎とは? わかりやすく解説

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幕末の変革と気吹舎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 08:14 UTC 版)

気吹舎」の記事における「幕末の変革と気吹舎」の解説

平田篤胤は、鎖国下の日本ロシア語辞書編纂するなど、対外的な危機のなかで西洋対す日本あるべきすがた追究した。しかし、弘化嘉永時期になると、仏教ふるさとインドイギリスの植民地となっていること、儒教ふるさとである中国アヘン戦争大敗したことが知られるようになり、さらに日本では黒船来航によって社会騒然とするなか、従来の《将軍-大名藩主-家臣、家臣-奉公人》といった封建的主従関係よりも、天皇朝廷を軸とした国家的まとまりの方が肝要であると説く平田国学基本的な考え方は、各地武士層によって強い関心をもってむかえられた。その結果武士からの入門者が急増する一方、そのなかから尊王攘夷運動一翼をになう人物現れるなど学塾の政治化急速に進んだ文久元年1861年)頃から、気吹舎への入門数、気吹舎刊行書籍発行部数急増している。また、明治維新功労者である西郷隆盛再三江戸気吹舎訪れている。 気吹舎は、このような状況の中で、全国政治情報おのずと入ってくるセンターとなっていった。久保田藩江戸定府となった平田銕胤は、門人たちに対し平田国学修行指南親しくおこない基本的な文献貸してやったり、ときには食事供するなど懇切丁寧接す一方超人的なまでに頻繁に門人たちと通信して連絡取り合っており、このことは逆に銕胤らにさまざまな政治情報もたらした。銕胤は義父篤胤の教学(「皇朝古道学」)を広く全国押し広げようというなみなみならぬ熱意をもっていたと同時に卓越した組織能力発揮した久保田藩は、これに着目し、銕胤・延胤父子江戸京都情報探索命じており、その情報収集活動はいっそう精緻なものに変わっていった。薩摩藩益満休之助平田銕胤にあてた書簡示しているように、大藩藩士であり、清河八郎江戸急進的な尊王攘夷派とも深い関係をもっていた益満であっても文久元年1861年)にラザフォード・オールコックらが襲撃され東禅寺事件第1次)の情報について気吹舎求めざるを得なかったのであるこうしたなか、篤胤の嫡孫平田延胤が、平田国学者の政治的理論的指導者として成長遂げている。 明治維新後、新政府文明開化標榜し近代化政策急速に推し進めていくが、このとき平田国学者たちの多く守旧頑迷の徒として中央政界追われた。気吹舎活動明治9年終焉をとげた。

※この「幕末の変革と気吹舎」の解説は、「気吹舎」の解説の一部です。
「幕末の変革と気吹舎」を含む「気吹舎」の記事については、「気吹舎」の概要を参照ください。

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