幕末の変革と気吹舎
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平田篤胤は、鎖国下の日本でロシア語辞書を編纂するなど、対外的な危機のなかで西洋に対する日本のあるべきすがたを追究した。しかし、弘化・嘉永の時期になると、仏教のふるさとインドがイギリスの植民地となっていること、儒教のふるさとである中国はアヘン戦争で大敗したことが知られるようになり、さらに日本では黒船来航によって社会が騒然とするなか、従来の《将軍-大名、藩主-家臣、家臣-奉公人》といった封建的主従関係よりも、天皇・朝廷を軸とした国家的まとまりの方が肝要であると説く平田国学の基本的な考え方は、各地の武士層によって強い関心をもってむかえられた。その結果、武士からの入門者が急増する一方、そのなかから尊王攘夷運動の一翼をになう人物が現れるなど学塾の政治化が急速に進んだ。文久元年(1861年)頃から、気吹舎への入門数、気吹舎刊行書籍の発行部数が急増している。また、明治維新の功労者である西郷隆盛も再三、江戸の気吹舎を訪れている。 気吹舎は、このような状況の中で、全国の政治情報がおのずと入ってくるセンターとなっていった。久保田藩の江戸定府士となった平田銕胤は、門人たちに対し平田国学の修行指南を親しくおこない、基本的な文献を貸してやったり、ときには食事を供するなど懇切丁寧に接する一方、超人的なまでに頻繁に門人たちと通信して連絡を取り合っており、このことは逆に銕胤らにさまざまな政治情報をもたらした。銕胤は義父篤胤の教学(「皇朝古道学」)を広く全国に押し広げようというなみなみならぬ熱意をもっていたと同時に卓越した組織能力を発揮した。久保田藩は、これに着目し、銕胤・延胤父子に江戸・京都の情報探索を命じており、その情報収集活動はいっそう精緻なものに変わっていった。薩摩藩の益満休之助が平田銕胤にあてた書簡が示しているように、大藩の藩士であり、清河八郎ら江戸の急進的な尊王攘夷派とも深い関係をもっていた益満であっても、文久元年(1861年)にラザフォード・オールコックらが襲撃された東禅寺事件(第1次)の情報については気吹舎に求めざるを得なかったのである。こうしたなか、篤胤の嫡孫平田延胤が、平田国学者の政治的理論的指導者として成長を遂げている。 明治維新後、新政府は文明開化を標榜し、近代化政策を急速に推し進めていくが、このとき平田国学者たちの多くは守旧頑迷の徒として中央政界を追われた。気吹舎の活動も明治9年に終焉をとげた。
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