海外情報の獲得
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 10:17 UTC 版)
アヘン戦争における大国清の敗北、黒船来航によって「鎖国から開国へ」という江戸幕府の政策転換によって東アジアをめぐる「西力東漸」の情勢がしだいに明らかとなり、それに危機感を覚えた知識人たちは競って海外情報の獲得をめざした。 従来の海外情報としては、長崎のオランダ人(カピタン)によるオランダ風説書、清国人による唐人風説書があったが、両者は幕府首脳の独占するところであり、他には、西川如見『華夷通商考』、新井白石『西洋紀聞』『采覧異言』、工藤平助『赤蝦夷風説考』、桂川甫周『北槎聞略』、大槻玄沢『環海異聞』などの書籍があったが、体系的な知識を著述したものは少なく、また、読者もきわめて限られていた。 漢籍としては、1843年(道光23年)、士大夫出身の魏源が著述した『海国図志』が江蘇省揚州で刊行されている。『海国図志』はアヘン戦争後、新疆のイリに左遷された欽差大臣林則徐が魏源に託した地理書『四洲志』(イギリス人ヒュー・マレーの『世界地理大全』の漢訳本)をもとに著述された万国地理書・世界情報書で、編集に際しては歴代の地理歴史書、明代以後の西洋地誌、地図など数多くの資料が参照され、魏源自身の見識によって著述されている。当初は50巻であったが1847年(道光27年)には60巻本、1852年(咸豊2年)には100巻本に増補された。魏源はこのなかで「夷の長技を師とし以て夷を制す」と述べ、西洋の先進技術を学ぶことでその侵略から自身を守るという刊行目的を示しているが、その危機感と著述の趣旨を清国以上に真摯に受けとめたのは幕末の日本であった。 日本における『開国図志』の受容は中国はもとより李氏朝鮮と比べても9年も遅い嘉永4年(1851年)のことであったが、幕府の文庫に秘蔵されていた同書を見かけた勘定奉行川路聖謨が老中阿部正弘にこの書の有用であることを説き、阿部もまたそれに賛同して閣老・参政に対する熟読奨励と翻刻に関する将軍許可を得た。川路はただちに私費を投じて儒者塩谷宕陰、蘭学者箕作阮甫に校訂を依頼して翻刻・出版した。こうして『開国図志』がいったん刊行されるや数年を経たぬうちに23種類もの翻刻が出版され、和訳本も16種類あらわれた。このことは、政策担当者である幕閣、佐久間象山や吉田松陰・橋本左内・横井小楠ら各地の知識人のみならず、庶民でも読み書きのできる人々のなかには少なからず国際情勢に関心をもつ者がおり、彼らによってさかんに読まれたことを示している。 江戸幕府は、万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書交換のためにポーハタン号で新見正興を正使、村垣範正を副使、小栗忠順を監察官とする総勢77名の万延元年遣米使節をアメリカ合衆国に派遣した。この使節には、護衛艦として軍艦奉行木村喜毅を司令官とする咸臨丸をともない、乗組士官として勝海舟・小野友五郎をはじめとする長崎海軍伝習所関係者をあて、通訳にはアメリカ事情に詳しい土佐国の漁民出身の中浜万次郎(ジョン万次郎)、木村の従者として豊後国中津藩出身の福澤諭吉が乗船した。一行はサンフランシスコでもホワイトハウスでも大歓迎を受けた。海外事情はこうして直接もたらされることとなるが、使節団の構成をみてもわかるように、欧米との本格的な修好の開始は、従来の身分制度にとらわれない実力本位の抜擢をともなうものであった。 幕府はまた文久元年(1862年)には竹内保徳を正使、松平康英を副使とする第1回遣欧使節(文久遣欧使節)33名を派遣した。これは、ヨーロッパに向けた開港・開市延期交渉のための使節であり、「夷情探索」の命を受けた傭医師兼翻訳方の箕作秋坪、松木弘安(のちの寺島宗則)、通詞として福澤諭吉、福地源一郎さらに幕府から柴田剛中、長州藩から杉孫七郎らが従者として加わった。一行はマルセイユからパリに入ってナポレオン3世と会見、オランダ、プロイセン、ロシア、ポルトガルを歴訪した。 文久3年(1863年)には池田長発を正使、河津祐邦を副使、河田煕を目付とする第2回遣欧使節(横浜鎖港談判使節団)を派遣した。正使の池田は渡航前は攘夷家であったが、随員のひとりの原田吾一がそのまま西欧に残り、留学したい旨の希望を受け入れ、フランス政府からの勧めもあってフランスへの留学生派遣に尽力することを約束、パリではシーボルトと会見して渡仏中のさまざまな斡旋を依頼、さらにその報酬を支払っている。池田は弁理公使派遣の重要性を認識し、有能な現地人の雇用まで考慮し、さらに帰国後に横浜鎖港の不可と富国強兵を論じ、海外渡航の解禁建白をおこなうなど、実際に西欧にふれたことで世界観を劇的に変化させた。池田の数々の提言は従来に比較していっそう開明的・先進的なものであり、そこに「万国公法」への理解が進展しつつあることが指摘できる。 その後も幕府は慶応元年(1865年)の遣欧使節団(正使:柴田剛中)、慶応2年(1866年)の遣露使節団(正使:小出秀実)、慶応3年(1867年)の遣米使節団(正使:小野友五郎)、同年の遣欧使節団(代表:徳川昭武)の都合7回、欧米に対して使節を送っている。 中国にむけては、対中貿易の試験船として文久2年に千歳丸を長崎から出帆させ、勘定方根立助七郎以下の幕吏に加え、長州藩の高杉晋作、佐賀藩の中牟田倉之助、薩摩藩の五代友厚(名目は水夫)、大村藩の峰源蔵ら諸藩士・長崎商人計50名余を上海に送った。高杉・中牟田・五代の3人は上海で意気投合し、蒸気船や砲台などを一緒に見学したり、武器商人と会談したりなど、情報収集に努めている。 これら外交使節団(留学生については「留学生の派遣」 節にて後述)の一行に加わった人々は当時の発展いちじるしい欧米諸国やアロー戦争下の中国の実情を見聞したことで、帰国後、いっそうリアルな海外情報を日本にもたらし、日本植民地化への危機感などを周囲に伝えた。こうして、ある人は幕末の政局に影響をあたえ、ある人は維新後の日本の近代化に大きく寄与することとなったのである。 福澤諭吉は慶応2年(1866年)に『西洋事情』初編3冊を刊行し、幕末から明治初年にかけて二編と外篇を刊行した。『海国図志』はその役割を終え、以後朝野を問わず「洋行」の時代をむかえることとなった。
※この「海外情報の獲得」の解説は、「幕末期の文化」の解説の一部です。
「海外情報の獲得」を含む「幕末期の文化」の記事については、「幕末期の文化」の概要を参照ください。
- 海外情報の獲得のページへのリンク