浅川範彦とは? わかりやすく解説

浅川範彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/31 00:16 UTC 版)

浅川範彦
生誕 1865年
土佐国土佐郡秦村
死没 1907年1月10日
研究分野 細菌学
研究機関 国立伝染病研究所
主な業績 ジフテリア破傷風などの研究
プロジェクト:人物伝
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浅川 範彦(あさかわ のりひこ、1865年 - 1907年1月10日)は、明治時代の細菌学者、医学博士北里柴三郎に師事し、ジフテリア破傷風などの血清研究に功績を残した。生前は日本の免疫学の第一人者であり、丹念に追求していくその研究手法は「探偵的研究」とも呼ばれた。日本細菌学会賞の一つに、その功績を記念する浅川賞がある。

人物

1865年慶応元年)1月に、土佐国土佐郡秦村に生まれる。中江兆民の従兄弟。旧高知藩士。県立医学校で医学を学び、卒業後上京して、済生学舎で造詣を深めた。1889年に郷里に戻って開業、1890年高知病院に招かれ、副院長となる。

1894年に再び上京して、北里柴三郎に師事。1896年に、浅川丹毒治療法と呼ばれる丹毒の治療法を開発。北里が新たに伝染病研究所を開いたときに助手となり、ジフテリア血清療法の研究に師事して大きく貢献した。また、血清薬院が創設されると、その製造を担当した。

1899年4月に国立伝染病研究所部長となり、講習を担当して後輩を指導した。1900年にはビダール反応チフス菌診断に応用し、浅川診断液を製造他にも破傷風の毒素の作用を研究し、破傷風菌の毒素が神経中枢を侵すことを原因まで突き止めた。余暇に『實習細菌學』などを著し、1901年医学博士の学位を授かる。

1907年1月10日に病気で死亡。北里は彼の業績を記念して浅川賞を設立した。

著書

  • 『虎列刺のむし』(大和田篤治・出版 1891年7月)[1]
  • 『實習細菌學』(1896年4月)[2]
  • 『実布垤里亜血清応用論』(細菌学雑誌社 1897年4月)[3]

参考


浅川範彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 03:37 UTC 版)

岡田国太郎」の記事における「浅川範彦」の解説

浅川北里柴三郎師事しジフテリア破傷風などの血清研究功績残した免疫学者としての浅川功績記念して細菌学および関連領域研究において行われた優れた研究に対して浅川賞」が日本細菌学会により定められている。浅川土佐現高知県)の生まれで、済生学舎医術研鑽した後高知医業従事していた。国太郎同期高知出身正任の紹介で、医大生であった太郎1883年明治16年済生学舎研鑽中の浅川知り合い浅川高知帰郷した後も交流続けていた。

※この「浅川範彦」の解説は、「岡田国太郎」の解説の一部です。
「浅川範彦」を含む「岡田国太郎」の記事については、「岡田国太郎」の概要を参照ください。

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