中世ヨーロッパにおいて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 02:37 UTC 版)
初期のキリスト教徒の間では復活祭の日付を定めるために現地ユダヤ人に過越の日付(ユダヤ暦のニサンの月(英語版)14日)を聞き、その日か最も近い日曜日を復活祭の日付とすることが多い。3世紀末までに、この日付が春分以前になる状況が発生するようになり、都市ごとに違う状況も多い。325年の第1ニカイア公会議以降、復活祭の日付表が様々な計算法(コンプトゥス)によって算出されるようになった。このような日付表はイエス・キリストの受難から制作日の数十年または数百年先まで続くことが多い。7世紀より、アイルランド、ウェールズ、イングランドの修道院では修道士が日付表に傍注(英語版)その年の重大な出来事を書き込むようになった。以降は編年記の作成がほぼ修道院の仕事になり、アイルランド年代記(英語版)が最初の修道院による編年記とされた。ただし、初期の編年記がすべて修道士の作品というわけではなく、アングロサクソン年代記などは国王の後援があったとされる。この時期の編年記の例としてはアルスター年代記(英語版)、カンブリア年代記などがある。 これらの編年記は宣教師によって大陸ヨーロッパにもたらされ、編年記を書く風習が特にアウストラシアで根付くようになった。9世紀のカロリング朝ルネサンスでは編年記が同時代史を書く標準的な形式になり、フランク王国年代記やフルダ年代記が例である。やがて編年記の項目がより詳しく書かれるようになると、年代記(chronicles)とほとんど見分けがつかなくなるが、編年記の名前は13世紀のウェイヴァリー編年記(Annals of Waverleyなどに残された。
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