中世ヨーロッパでの流行
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「ハンセン病の歴史」の記事における「中世ヨーロッパでの流行」の解説
「感染症の歴史#ハンセン病」も参照 ヨーロッパには中世初期に侵入したと考えられており、300年頃からみられ、民族大移動などによって全ヨーロッパに広がったとみられる。イエス・キリストがレプラの患者に触れて治癒させた奇跡の記述が『新約聖書』「ルカによる福音書」にあり、イエスの絶対愛のあり方を物語っている。ローマ教会は患者救済のため、「ラザロ」の寓意よりなる「ラザレット(英語版)(らい院)」を設け、患者の救済・保護をはじめた。11世紀・12世紀にはハンセン病の流行が急速に拡大した。 1096年にはじまった十字軍は、パレスティナの特にエルサレム地域のハンセン病がヨーロッパに蔓延するきっかけとなった。罹患した兵士のためにエルサレムにラザレットが作られ、患者救済が行われた。英邁で知られるエルサレム王国の国王ボードゥアン4世もハンセン病患者とみられている。その後、ヨーロッパ各地にもハンセン病が蔓延してきたため、フランスやドイツなどにもラザレットが建てられた。ラザレットでは、ハンセン病を「ミゼル・ズフト」(貧しき不幸な病)と称して救済が行われたが、当時のローマ教会は『旧約聖書』にもとづき、「ツァーラアト」の措置として「死のミサ」や「模擬葬儀」など祭儀的な厳しい措置が行われることも多かった。また、外出時には自分が患者であることを分かるような服装を強制され、公衆の場に出ることは制限された。 『旧約聖書』「レビ記」の13章と14章には、患者と思しき人物を一時的に隔離して祭司が経過を観察する法があるが、これには感染していなかった場合や治癒した場合の復権の規定も含まれており、不治の病であるかのような誤解にもとづく種々の差別とは一線を画している。中世において行われていたのは公衆衛生上の隔離ではなく「風俗規制」による社会的隔離のための患者隔離政策であった。具体的には「現社会からの追放」「市民権・相続権の剥奪」「結婚の禁止、家族との分離、離婚の許可」「就業禁止、退職の促進」「立ち入り禁止などの行動規制」などであった。一方で兵役、納税、裁判出頭の義務は免除されていたが、それは公民としての存在が否定されていたことを意味する。そのため、ハンセン病患者に対する偏見・差別が拡大した。社会的隔離政策の勅令としてはフランク王国のカール大帝によるものが有名で、その後出現した法治国家でも「患者隔離法」や「患者取締令」によりらい院に強制収容された。 十字軍遠征により、ヨーロッパには多数の天然痘患者とハンセン病患者がもたらされたと考えられている。西欧では13世紀をピークとして流行し、各地にハンセン病の隔離施設ができた。この時代、全ヨーロッパで1万9000か所ものハンセン療養所(レプロサリウム)が建設されたといわれる。 ハンセン病患者は、健常者に対し、自分に近づかないよう知らせるためのフラヴェルというカスタネットを携帯することとなっていた。一方、中世ヨーロッパに暮らす人びとは、同胞の苦しみを敬意と共感をもって見つめること、病人に対する嫌悪感や不快感を乗り越えて兄弟に対するような慈愛を示すことを教えられ、そのように行動することを求められてもいた。13世紀のフランス王ルイ9世は、ロワイヨーモン修道院(フランス語版)をたずねるたびに、病毒のために顔がくずれ、人びとの恐怖感の対象であったレプラの患者の食事の給仕をみずから行うことを自身に課しており、また、フラヴェルを鳴らして自分から遠ざかるよう警告した患者に対し、水たまりがあるにもかかわらず彼に近づき、その手に接吻したという逸話がのこっている。アッシジのフランチェスコについても、同様の話は多数のこっている。 13世紀には『新約聖書』に範をとった「救らい事業」が行われた。ローマ教会に対抗し、聖者フランチェスコの献身的な救済活動により、1209年に組織されたフランシスコ会はアッシジに「らい村」を建設した。そこでは、一つの共同自治社会が形成され、「死のミサ」や「仮装埋葬」などの儀式もなく、また外出も自由にできた。新約聖書の「マタイ伝」16章に出ているイエス・キリストの教えと行動に則った病者への「労わり」に基づく救済活動であった。また、キリストによるハンセン病患者の治療は奇跡として扱われ、ハンガリーの聖女エリーザベトによる救済などや、十字軍時代のパレスチナに設置されたらい院でのラザロ看護騎士団の患者救済にも影響を及ぼした。フランシスコ会の人びとは日本の安土桃山時代にも渡来し、日本のハンセン病患者の救済も行われた。 14世紀頃になるとヨーロッパではハンセン病患者は次第に減少した。1348年の黒死病(ペスト)の大流行でラザレットの収容者が一掃されることもあり、ヨーロッパ各地のらい院は次々に閉鎖された。一方、14世紀には弱者迫害の傾向が強まり、不寛容の時代が到来したとする指摘がある。黒死病の蔓延は、ユダヤ人をスケープゴートとする迫害事件をヨーロッパじゅうに引き起こしたが、そのなかでユダヤ人とハンセン病患者とは結託しているという噂も流れた。ハンセン病患者はパンを利用して泉水を汚染する毒をつくったとされ、「羊飼いの十字軍」と称する一団が施療院を襲撃した際、腐敗したパンの詰まった樽を見つけたとまことしやかに記録されている。南仏では何か所かのコミュニティにおいて、フランス王に対し、ハンセン病患者隔離の請願もなされたのであった。
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