中世ヨーロッパの医科大学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 05:13 UTC 版)
「中世ヨーロッパの医学」の記事における「中世ヨーロッパの医科大学」の解説
医学は旧来の自由七科には含まれていなかった。医学は学問というよりも手仕事だと考えられていた。とはいえ、最初期(12世紀)のヨーロッパの大学でも医学科が設立され、イスラム医学が取り入れられた。イスラム圏と接する地中海地域では、11世紀イタリアでサレルノ医科大学(英語版)が設立され、組織的なプロフェッショナル医学が再興された。サレルノ医科大学では、モンテ・カッシーノ修道院の協力を得て、東ローマ帝国・アラブの研究成果が翻訳された。12世紀には、イタリアその他で大学が設立され、その中ですぐに医学部が作られていった。古代の大家のもつ信頼性は、個々の観察や実験によって徐々に補足されていった。 外科については、中世ヨーロッパでは、ガレノスの外科手術に関する著作が大学課程における主要テキストであった。ガレノスの人体観が絶対視されていたが、外科の技術は中世の間に大きく進歩した。ルッジェーロ・フルガルド(英語版)はサレルノ医科大学に外科部門を創設し、『外科医術』(Chirurgia Magistri Rogerii)を著し、現代に至るまでの西洋の外科処置法の基礎を築いた。
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