中世ヨーロッパの農民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 03:16 UTC 版)
中世の北ヨーロッパでは、19世紀まで開放耕地制が一般的だった。ここでは、農民は領主や教会の聖職者(カトリックの司教、プロテスタントの監督)の荘園に住み、耕作権と引き換えに地代や労役を提供した。荘園には、耕作地のほかに休耕地、牧草地、森、荒地なども含まれた。こうした開放耕地制は、領主と農民の相互依存関係のもとに成り立っていた。後にこのシステムは、農民(農家)個人が土地を所有し管理する制度に代えられていった。 西ヨーロッパでは、14世紀中ごろに黒死病が大流行したのち、農民の地位が大きく向上した。労働人口が大幅に減ったことで、生存した農民が貴重な存在になるとともに、死者の耕地を含めた広大な土地の所有権もしくは耕作権を獲得したためである。その後、活版印刷と書籍の普及によって農民の識字率が向上していき、また啓蒙時代に入ると君主のテコ入れで農民の社会的地位や教育体制が大きく変革された。 イングランドでは、産業革命期に入ると耕作機械や肥料などを導入する農業技術革新により農業生産力が飛躍的に向上した。同時に、生産価格競争に敗れたり、第二次囲い込みで土地を追われるなどした多くの農民が都市へ移住し、工場労働者、カール・マルクスの言う「プロレタリアート」になっていった。独立自営農民として農業を維持できた人々は比較的富裕で選挙権を早期に獲得するなど社会的地位も高く、中世の農民のような社会ヒエラルキー下部の階層は、都市へ移った工場労働者が当てはまるようになった。 東ヨーロッパでは14世紀以降、中世の農奴制の姿がほとんど変化せずに存続してきた。18世紀から19世紀にかけて、啓蒙専制君主の手による農奴解放の動きが生まれたが、不完全な形であったり領主の激しい抵抗を受けたりした。ロシアでは、1861年にアレクサンドル2世が農奴解放令を発し、公的には農奴制が廃止された。勅令発令後も多くの農民は先祖代々の土地に縛り付けられたままだったが、農民が土地を売買したり、土地を持たない農民が都市に移住したりすることができるようになった。なお、1861年の農奴解放令以前から、ロシアの農奴制は徐々に衰退してきていた。18世紀末には人口の45%から50%を占めていた農奴は、1858年には37.7%まで減少していた。
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