死と列聖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/26 02:56 UTC 版)
「ミハイル2世 (キエフ大公)」の記事における「死と列聖」の解説
ミハイルの死に関して、ある年代記は「ミハイルはバトゥの幕舎に呼ばれ、異教の司祭から、彼らにとって神聖な火と偶像を参拝するよう命じられた。しかしそれを断ったために殺され、遺骸は彼の忠実な側近によってチェルニゴフへ運ばれた。」という主旨の記述を伝えている。しかし実際はキエフ大公ヤロスラフ3世のように、モンゴルの息のかかった公によって毒殺されたようである。また、ほぼ同時期にダニールはバトゥを直接訪問し、従属を認められている。 1543年にアルハンゲリスキー大聖堂の聖者の群像画の中に書き加えられた。祭日は9月20日(グレゴリオ暦では10月3日)。1572年、ミハイルの遺体は世に知られるところとなり、チェルニゴフからモスクワへ運ばれた。1772年には不朽体としてシリブリャーンカの聖骨箱に納められ、アルハンゲリスキー大聖堂に安置された。しかし聖骨箱は1812年のフランス軍の侵攻の際に盗まれたため、それ以降は青銅のもので代用されている。
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