死とリューリク朝の断絶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 14:38 UTC 版)
「フョードル1世」の記事における「死とリューリク朝の断絶」の解説
結局、後継者たる男子のないまま、フョードル1世は1598年の年明けに崩御した。彼の死をもってリューリクの直系子孫は途絶え、リューリク朝は断絶した。また後継者の指名もしていなかったため、全国会議が摂政ボリスをツァーリに選出した。 その後、ボリスをはじめとする短命な統治者が次々と現れては消えてゆく、いわゆる動乱時代に突入し、1610年以降はツァーリが不在という事態にも陥った。1613年にフョードル1世の従甥であり、母アナスタシア・ロマノヴナの家系であるロマノフ家出身のミハイル・ロマノフがツァーリとなり、動乱時代は終結した。
※この「死とリューリク朝の断絶」の解説は、「フョードル1世」の解説の一部です。
「死とリューリク朝の断絶」を含む「フョードル1世」の記事については、「フョードル1世」の概要を参照ください。
- 死とリューリク朝の断絶のページへのリンク