死と影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 21:03 UTC 版)
「サーリフ・ブン・ミルダース」の記事における「死と影響」の解説
1025年から1028年の間にファーティマ朝はサーリフの同盟者であるジャッラーフ家が率いるタイイ族と合意に達し、パレスチナの内陸部における拠点の維持を認め、アヌーシュタキーンはカイロに呼び戻された。ミルダース朝とは対照的にタイイ族は自らの領地と住民から略奪を続けた。しかしながら、この状況はファーティマ朝の存続にとっては脅威であり、ファーティマ朝は一貫して南西アジアへのエジプトの玄関口であるパレスチナの自立を容認しようとはしなかった。この合意が結ばれた一方でファーティマ朝は体勢を立て直してカルブ族をダマスクスから追放し、1028年にはカルブ族の族長のスィナーン・ブン・ウライヤーンが死去した。甥のラーフィ・ブン・アビール=ライル(英語版)がスィナーンの後を継いだが、ラーフィはファーティマ朝に懐柔されてファーティマ朝へ離反し、三者によるベドウィンの同盟は弱体化した。1028年11月にアヌーシュタキーンがタイイ族を掃討するためにカルブ族とファザーラ族(英語版)の騎手が加わった大規模なファーティマ朝軍を率いてパレスチナに戻り、シリア中部からミルダース朝の勢力を追い払った。 ファーティマ朝とカルブ族がタイイ族に対抗する態勢を整えたことで、タイイ族の族長のハッサーン・ブン・ムファッリジュは、ファーティマ朝の侵略に対してシリア一帯の部族の実効支配を維持するためにサーリフの支援を求めた。サーリフはこれに応じてパレスチナのタイイ族の戦力を強化するためにキラーブ族の軍隊を動員した。両部族のベドウィンの指導者は最初にガザの近郊でファーティマ朝とカルブ族の連合軍と交戦したが、敵の前進を食い止めることができずに北へ撤退した。その後、1029年5月12日もしくは5月25日に両軍はティベリアス湖の東岸に位置するウクフワーナで戦った。不明な理由によってハッサーンとその部隊が戦闘の最中に離脱し、サーリフとその配下の部隊が単独でアヌーシュタキーンの部隊の前に取り残された。そしてキラーブ族は決定的な敗北を喫し、サーリフと末の息子、そしてワズィールが戦死した。 戦闘の後、サーリフの首はカイロに送られて晒し首となった。一方で胴体はかつて滞在を楽しんでいたシドンの町の入口で磔にされた。アル=マアッリーはサーリフの死とキラーブ族が敗北した際の状況への悲嘆を詩の中で表現した。キラーブ族は部族内の支流の一つであるディバーブ族として言及されている。 サーリフはそれとは分からない程に姿を変えてしまった。そしてカイスのディバーブ族(キラーブ族)は狩られることを恐れる単なるトカゲ(ディバーブ)に過ぎない。 ファーティマ朝はサーリフの代官が統治するシドン、バールベック、ホムス、ラファニーヤ、およびアッカールへの征服を開始し、これらの都市の代官たちは全員逃亡した。サーリフは次男であるスィマールを後継者として指名し、アレッポの統治を任せていた。ウクフワーナで戦った長男のナスルはアレッポの支配権を奪うために戦場から逃亡した。その後、二人の息子はナスルが都市を支配し、スィマールが城塞を支配する形で短期間共同してアレッポを統治したが、1030年のある時期にナスルがスィマールに対してラフバへの移住を強要した。1038年にはアヌーシュタキーンがナスルを殺害してアレッポを占領したものの、スィマールが後にミルダース朝による支配を回復し、ミルダース朝は時折中断を挟みながらも1080年までアレッポの支配を維持した。ミルダース朝の崩壊後はアラブ系のウカイル朝(英語版)の君主であるムスリム・ブン・クライシュがアレッポを支配したが、ムスリム・ブン・クライシュは1085年にセルジューク朝との戦いで戦死した。そしてその死はトゥルク系とクルド系王朝の支配によるアレッポのアラブ人支配の完全な終焉と、シリアの政治的舞台からのアラブ部族の事実上の消滅を意味することになった。
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