死と後継者
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史料によって期間にずれはあるものの、マルワーンは6か月から10か月の間の統治ののち、685年(ヒジュラ暦65年)の春に死去した。マルワーンの死の正確な日付は中世の史料からははっきりとしていない。歴史家のイブン・サアド(英語版)、タバリー、ハリーファ・ブン・ハイヤート(英語版)は4月10日か11日(シャアバーン月29日)、マスウーディーは4月13日(ラマダーン月3日)、ニシビスのエリヤ(英語版)は5月7日としている。ほとんどの初期のイスラーム教徒による史料ではマルワーンはダマスクスで亡くなったとしているものの、マスウーディーはティベリアス湖に近いシンナブラ(英語版)にある冬の住居で死去したとしている。伝統的なイスラーム教徒による史料の中で広く伝わっているものとしては、マルワーンが妻のウンム・ハーシム・ファーヒタに対して名誉を傷つけるような酷い侮辱の言葉を吐いたために、報復として就寝中に殺害されたというものがある。しかし、この話はほとんどの西洋の歴史家からは史実とはみなされていない。また、マスウーディーの記録から、ボズワースらはマルワーンが死去した時期にシリアを襲っていた伝染病が死の原因だったのではないかと疑っている。 685年にマルワーンがエジプトからシリアへ帰還する際に、マルワーンは息子のアブドゥルマリクを継承順位の第一位、アブドゥルアズィーズを第二位とする形でカリフの後継者として指名した。シンナブラに到着したあとにマルワーンはこの後継者の変更を実行したものの、イブン・バフダルがアシュダクをマルワーンの次期の後継者として認めたという知らせを受けた。マルワーンはイブン・バフダルを召喚して尋問し、最後には確実な後継者であるとしてアブドゥルマリクに忠誠を誓うように要求した。これによってマルワーンは684年にジャービヤの部族会議で達した合意を破棄し、世襲による継承の原則を再び導入することになった。アブドゥルマリクは以前に指名された後継者であるハーリド・ブン・ヤズィードとアシュダクから異議を受けることなくカリフの地位を継承した。その後は世襲による継承がウマイヤ朝の標準的な慣行となった。
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死と後継者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 00:07 UTC 版)
ヤズデギルド1世は420年に死去した。5世紀のアルメニアの歴史家であるモブセス・ホレナツィ(英語版)(490年代没)によれば、死因は病気によるものであった。一方、ペルシアの詩人フェルドウスィーが『シャー・ナーメ』(王の書)に記したよく知られている古い伝承によれば、ヤズデギルド1世は東方のアバルシャフル(英語版)地方のトゥースの町に隣接する Chishmih-i Su または Chishmih-i Sabz(「緑の泉」を意味する)から突然現れた白馬に蹴られて死亡し、その後、白馬は忽然と姿を消してしまった。そして人々は、白馬は王の圧政を終わらせるために神に遣わされた天使であると語った。 ドイツの東洋学者のテオドール・ネルデケは、「フェルドウスィーは自分の故郷であるトゥースの諸々の伝承の中にこの言い伝えを無造作に組み込んだ」と推測している。また、この殺害はグルガーン(英語版)で起きていた可能性もあり、グルガーンで殺害されたとする伝承はフェルドウスィーの作品よりも古くから存在する。ヤズデギルド1世の死がトゥースとグルガーンのどちらであったにせよ、この伝承は恐らく遠隔地の北東部でヤズデギルド1世を殺害したパルティア貴族によって作り出されたと考えられている。 ヤズデギルド1世を嫌悪していた貴族や聖職者たちは、続けてヤズデギルド1世の息子たち(シャープール、バハラーム、ナルセの三人が知られている)から王となる権利を奪おうとした。シャープール(当時のアルメニア王)はクテシフォンへ駆けつけ、シャープール4世として王位を継承したものの、廷臣たちの裏切りによって殺害された。そして貴族たちはバハラーム4世の息子であるホスローを王位に据えた。しかし、ラフム朝(英語版)のアル=ヒーラの宮廷で育ったバハラームがアラブ人の軍隊を率いてクテシフォンに到着し、貴族たちに王位を認めるように圧力をかけ、バハラーム5世として即位した。もう一人の息子のナルセはホラーサーンの総督に任命された。
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死と後継者
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457年にヤズデギルド2世は死去し、長男のホルミズド3世がシャフレ・レイで王位についた。弟のペーローズは、ミフラーン家の有力者であったラハム・ミフラーンの支援を受けて帝国の北東方面へ逃亡し、自身の王位を主張するために軍隊を集め始めた。こうしてサーサーン朝は分裂し、王家内で争う状況に陥った。二人の兄弟の母であるデナグが首都のクテシフォンから帝国の摂政として一時的に統治を行った。
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死と後継者
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詳細は「第二次内乱」を参照 ヤズィードは683年11月11日にお気に入りの住居があったシリア中央部の砂漠の町であるフッワーリーンで死去し、その地に埋葬された。アブー・マアシャル・アル=マダニー(778年没)やワーキディー(英語版)(822年没)のように初期の年代記作者はヤズィードの死の詳細について何も述べていない。この情報の欠如は、落馬、過度の飲酒、胸膜炎、さらには熱傷を含むいくつかの死因を詳述している反ウマイヤ朝の傾向を持つ作家による創作話に着想を与えたとみられている。当時ホラーサーンに住んでいた同時代の詩人であるイブン・アラーダの詩によれば、ヤズィードは体の脇にワインカップを持ったままベッドで死んだ。 ヤズィードの死後、イブン・アッ=ズバイルは自身をカリフであると宣言し、これを支持したエジプトとイラクがイブン・アッ=ズバイルの支配下に入った。シリアではヤズィードによって後継者に指名されていた息子のムアーウィヤ2世がカリフとなったものの、シリアのほとんどの地域(ジュンド・ヒムス、ジュンド・キンナスリーン、およびパレスチナのジュンド・フィラスティーン(英語版))がイブン・アッ=ズバイルの同盟者による支配下に入ったため、ムアーウィヤ2世の支配地はシリアの一部に限定されていた。ムアーウィヤ2世は原因不明の病気によって即位から数か月後に死去したが、いくつかの初期の史料では死去する前に退位していたと述べている。 ムアーウィヤ2世の死後、ヤズィードの母親の出身部族であるカルブ族の人々は、自らの特権を維持するためにヤズィードの息子のハーリド・ブン・ヤズィード(英語版)を擁立しようとした。しかし、ハーリドはウマイヤ朝を支持する部族連合の中でカルブ族以外の部族からはカリフとなるにはあまりにも若すぎると見なされたため、ムアーウィヤ(1世)の再従兄弟にあたるマルワーン・ブン・アル=ハカムが684年6月にウマイヤ朝支持派の部族によるシューラーでカリフとして認められた。その直後にマルワーンとカルブ族はマルジュ・ラーヒトの戦いでダッハーク・ブン・カイスに率いられたシリアのイブン・アッ=ズバイル支持派の軍隊に大勝を収めた。ウマイヤ朝支持派によるシューラーではハーリドがマルワーンの後継者となることを定めていたにもかかわらず、マルワーンは息子のアブドゥルマリクを自分の後継者に指名した。これによってウマイヤ朝の王家はスフヤーン家(ムアーウィヤ1世の父親であるアブー・スフヤーン(英語版)の子孫の家系)からマルワーン家に取って代わられた。アブドゥルマリクは692年までにイブン・アッ=ズバイルを打ち倒し、イスラーム国家全域におけるウマイヤ朝の権威を回復させた。
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死と後継者
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「スライマーン (ウマイヤ朝)」の記事における「死と後継者」の解説
スライマーンは717年9月にダービクで死去し、その地に埋葬された。死去した日付について、11世紀のキリスト教徒の年代記作家であるニシビスのエリヤ(英語版)は9月20日か21日としているが、8世紀のイスラーム教徒の歴史家であるアブー・ミフナフ(英語版)は9月23日か24日としている。スライマーンは金曜礼拝から戻った後に病に罹り、その数日後に亡くなった。 スライマーンは兄弟で後継者となる可能性があったマルワーン・アル=アクバル(英語版)が死去した後、715年か716年に自分の長男のアイユーブを後継者に指名していた。この指名は同時代の詩人であるジャリール(英語版)の頌歌によって部分的に裏付けられている。 イマーム(スライマーン)の次にその才能が望まれるイマームは、選ばれし後継者のアイユーブ(ヨブのアラビア語名)である…… あなた(アイユーブ)は慈悲深い者(スライマーン)を継ぐ者であり、詩篇を朗唱する人々が認める者、律法にその名が刻まれた者である。 しかしながら、アイユーブはシリアとイラクを襲っていたターウーン・アル=アシュラーフ(「高貴な者の疫病」の意)に倒れ、717年の初頭に死去した。スライマーンの死も同じ疫病が原因であった可能性がある。死の床でスライマーンは別の息子であるダーウードの指名を考えたが、ラジャアはダーウードがコンスタンティノープルでの戦いで不在であり、生きているかどうかも判らないと主張してダーウードを指名しないように忠告した。そしてラジャアが「尊敬に値する優秀な人物であり、誠実なイスラーム教徒」と評するスライマーンの父方の従兄弟で助言者でもあったウマル・ブン・アブドゥルアズィーズ(後のウマル2世)を選ぶように勧めた。そしてウマルとスライマーンの兄弟の間で起こる可能性のある王家内の争いを避けるため、ヤズィード・ブン・アブドゥルマリク(後のヤズィード2世、在位:720年 - 724年)がウマルの後継者に指名された。自分の兄弟よりも従兄弟を優先したスライマーンによるウマルの指名は、カリフの地位はアブドゥルマリクの家系に限られるとするウマイヤ家の内部で考えられていた一般的な想定に反するものだった。ラジャアはスライマーンの意志の実行者として選ばれ、存在を無視されたカリフの兄弟による抗議に対し武力で脅すことでウマルへの忠誠を確保した。アイゼナーによれば、ラジャアのスライマーンとの個人的な関係は、伝承に基づく指名についてのイスラーム教徒の記録において、ラジャアの後継者の手配における役割を「恐らくは…大袈裟な」ものにした。一方でシャアバーンによれば、スライマーンがウマルを指名した理由は、ウマルが「スライマーンの政策に最も好意的な」候補者であったためである。
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