枢機卿任命
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教皇ヨハネ・パウロ2世は、1979年6月30日に秘密裏(イン・ペクトーレ)になお獄中にあった彼を枢機卿に任命した。これにより、前任の于斌の職務を引き継いで三人目の中国人枢機卿となった。このことは1991年5月29日に初めて公にされた。
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枢機卿任命
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1962年から1965年の間、第2バチカン公会議に参加した。1967年、最初の中国人枢機卿の田耕莘が台湾で死去した。1969年4月28日、教皇パウロ6世は于斌大司教を二人目の中国人枢機卿に任命した。5月19日にバチカンで戴帽式が行われ、于斌は新しく親任された枢機卿の中で首位であった。 1971年1月27日(春節)に、于斌枢機卿は国立台湾師範大学附属高級中学の講堂で初めて先祖崇拝の儀式を行い、物議を醸した。しかし、この伝統は今に至るまで続いている。なお毎年3月に輔仁大学は行っており、大学の特色となっている。 1978年8月、教皇パウロ6世が死去、全世界の枢機卿がバチカンに赴いて葬儀に参列し、且つ新しい教皇を選ぶことになった。教皇が逝去してから10日後の8月16日、于斌はバチカンで心臓発作で亡くなり、新任の教皇を選ぶためのコンクラーヴェには参加出来なかった。しかし、これにより94名の枢機卿が彼の葬儀に参列した。于斌の亡骸は輔仁大学のキャンパスに葬られた。彼は傅斯年とともに、台湾で唯二人キャンパスに葬られた学長である。
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