カンブレーの状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 09:57 UTC 版)
「カンブレー包囲戦 (1677年)」の記事における「カンブレーの状況」の解説
カンブレーの守備は格別だった。ボアローによると、スペイン王はカンブレーをフランドルのそれ以外の地域よりも重要視し、カンブレーもフランス軍の侵攻を幾度も撃退したことで知られた。 スペイン王カルロス2世はカンブレーをフランスへの側面攻撃のための基地としてみていた。ボアローによると、フランスではスペインがサントメールとカンブレーを失うとネーデルラント全体も危機に陥るためそれらを守るために最大の努力をするとみていた。 カンブレーの守備は南と西ではスヘルデ川により浸水しており、北東では1543年にカール5世の命令で建てられたカンブレー城(フランス語版)に守られていた。天気は寒く、雨雪交じりで包囲軍に不利だった。 一方、カンブレーは孤立していて外からの助けを期待できなかった。ポール・ペリッソン(英語版)によると、総督のペドロ・デ・サバラは老齢で弱く、駐留軍はスペイン人が主だったが「スペイン人の本質を忘れ」、城塞は名声はあるが小さく、接近してからの砲撃に弱いという。 ルーヴォワ侯爵はスパイを送ってカンブレー住民の状況について調べ、彼らが好戦的ではなくスペインに特段忠実だったわけでもなかった。また、ヴァランシエンヌがあっという間に陥落したため、抵抗する士気もなかったという。
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