カンブレー同盟とは? わかりやすく解説

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カンブレー同盟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 15:46 UTC 版)

カンブレー同盟戦争」の記事における「カンブレー同盟」の解説

皇帝無残な失敗を受け、教皇ユリウス2世第二次イタリア戦争ミラノ公国手中に収め更なるイタリア半島での領地拡大を狙うフランスルイ12世同盟誘い持ちかけた。折りしも1508年5月ヴェネツィア空席となったヴィチェンツァ司教慣習則って独自候補擁立したが、これはヴェネツィアへの攻撃を狙うユリウス2世にとってまたとない好機となった教皇は全カトリック諸国に対して自らが主導するヴェネツィア討伐軍への参加呼びかけフランス神聖ローマ帝国スペインそして教皇国参加するカンブレー同盟が結成された。同盟の際に結ばれた条約ではヴェネツィア領は加盟国によって分割される事が定められフランスブレシアクレーマベルガモクレモナといった旧ミラノ公国領を、神聖ローマ帝国イストリア加えヴェローナヴィチェンツァパドヴァフリウーリを、スペインオトラント手に入れ、そしてリミニラヴェンナを含む残り領土教皇国併合される事となっていた。 1509年4月15日ルイ12世フランス軍総司令官としてヴェネツィア侵攻開始した。これに対抗するため、ヴェネツィアは同じオルシーニ家傭兵隊長であるバルトロメオ・ダルヴィアーノとニッコロ・ディ・ピティリアーノを雇い入れたものの、彼らはフランス軍進撃をどう防ぐかという点で意見異なっていた。5月初旬ルイ12世軍勢アッダ川到達すると、ダルヴィアーノは彼らと正面から戦う事を避けて南へ撤退した5月14日アニャデッロ戦いにおいて両軍衝突すると、数でフランス軍に劣るダルヴィアーノはピティリアーノ援軍要請したものの、ピティリアーノ戦闘切り上げて進軍せよとする本国からの命令に従って戦場から撤退した撤退命令無視して戦い続けたダルヴィアーノ軍は最終的にフランス側撃破されて降伏しピティリアーノは何とかフランス軍との交戦避けようしたものの、ダルヴィアーノ軍の敗北知った彼の傭兵達翌朝大量脱走しピティリアーノトレヴィーゾへの撤退余儀なくされた。 アニャデッロでの敗戦によってヴェネツィア側の戦線は完全に崩壊したルイ12世率いフランス軍ブレシアに至るまで何ら抵抗を受ける事も無く進軍し占領しヴェネツィア前世紀の間保持していたイタリア北部領土全て失ったフランスによる占領免れたパドヴァヴェローナヴィチェンツァといった都市も、ピティリアーノ軍の撤退によって無防備な状態で取り残され結果皇帝マクシミリアン1世からの特使ヴェネト到着する速やかに降伏して都市明け渡したユリウス2世はヴィネツィアに聖務禁止令を発令する一方アルフォンソ1世・デステ助力得てロマーニャ地方侵攻しラヴェンナ占領する事に成功したフェラーラ公であったデステ4月19日教皇最高司令官任命されており、彼の活躍によってフェラーラ公国はポレージネ(現在のロヴィーゴ県)まで領地広げている。 しかしながら皇帝代官達がヴェネト到着する情勢一変する1509年7月中旬アンドレア・グリッティ率いヴェネツィア騎兵隊援助受けたパドヴァ市民一斉に蜂起し市内駐留していた皇帝ランツクネヒト追放7月17日には町が再びヴェネツィアの手戻ったのである反乱の報を受けたマクシミリアン1世皇帝軍・フランス軍スペイン軍から成る大軍引き連れて8月初旬トレント出発しヴェネトへと進軍開始した。だが馬の不足と杜撰な指揮系統によって軍の歩み遅くその間ピティリアーノは軍を立て直してパドヴァ駆けつける事に成功した1509年9月15日開始されパドヴァ包囲戦は、同盟軍砲撃によってパドヴァ城壁破壊された後もヴェネツィア守備隊抵抗によって長引き業を煮やしたマクシミリアン1世9月30日包囲解き、主軍をチロル撤退させてしまった。 11月中旬になると、ヴェネツィア軍は攻勢出たピティリアーノ率いる軍は各地残っていた皇帝軍を次々と破りヴィチェンツァエステフェルトレベッルーノ奪還したその後行われたヴェローナへの攻撃失敗したものの、ピティリアーノフランチェスコ2世・ゴンザーガ率い教皇軍を撃破するため、ポレゼッラ駐屯していたフェラーラ軍への攻撃命じた。だがアンジェロ・トレヴィサンによるガレー船からの地上攻撃失敗しフランチェスコ・グイチャルディーニ指揮受けたフェラーラ軍の砲撃によってポー川停泊していたヴェネツィア海軍壊滅的損害被ったフランス軍の増援迫りつつあったため、ピティリアーノ再度パドヴァへの撤退強いられた資金人員両面枯渇しつつある事に気づいたヴェネツィア議会ユリウス2世和平打診したものの、教皇対価として要求した条件極めて厳しいものだったヴェネツィアそれまで伝統的に保持してきた自国領内聖職者対す司法権任命権課税を失うのみならず戦争契機となったロマーニャ地方の諸都市教皇へ割譲し、更に教皇費やした戦費全額補償求められのである和平受け入れか否か論争は2ヶ月近くに及び、結局1510年2月24日ヴェネツィア和平受諾した。この和平条約破門されヴェネツィア側が大使派遣して教皇赦免求める形で締結されたものの、一方でヴェネツィア十人委員会密かに「この条約強要されたものであり、共和国適切な時期にこの条約破棄すべきだ」とする決議下していた。 教皇ヴェネツィア間では和平成立したものの、フランス軍3月になると再びヴェネツィア侵攻開始した1月死去したピティリアーノに代わってアンドレア・グリッティヴェネツィア総司令官就任したものの、皇帝軍との合流失敗したにも関わらずフランス軍破竹の勢い進軍し3月中にヴィチェンツァからヴェネツィア軍を追い出す事に成功したグリッティフランス・皇帝両軍による攻撃備えてパドヴァ篭城したが、ルイ12世彼の軍事顧問だったジョルジュ・ダンボワーズの死に気を取られ攻城戦中止となった

※この「カンブレー同盟」の解説は、「カンブレー同盟戦争」の解説の一部です。
「カンブレー同盟」を含む「カンブレー同盟戦争」の記事については、「カンブレー同盟戦争」の概要を参照ください。

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