カンブレー同盟
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「カンブレー同盟戦争」の記事における「カンブレー同盟」の解説
皇帝の無残な失敗を受け、教皇ユリウス2世は第二次イタリア戦争でミラノ公国を手中に収め、更なるイタリア半島での領地拡大を狙うフランスのルイ12世へ同盟の誘いを持ちかけた。折りしも1508年5月、ヴェネツィアは空席となったヴィチェンツァ司教に慣習に則って独自候補を擁立したが、これはヴェネツィアへの攻撃を狙うユリウス2世にとってまたとない好機となった。教皇は全カトリック諸国に対して自らが主導するヴェネツィア討伐軍への参加を呼びかけ、フランス、神聖ローマ帝国、スペインそして教皇国が参加するカンブレー同盟が結成された。同盟の際に結ばれた条約ではヴェネツィア領は加盟国によって分割される事が定められ、フランスはブレシア、クレーマ、ベルガモ、クレモナといった旧ミラノ公国領を、神聖ローマ帝国はイストリアに加えヴェローナ、ヴィチェンツァ、パドヴァ、フリウーリを、スペインはオトラントを手に入れ、そしてリミニやラヴェンナを含む残りの領土が教皇国へ併合される事となっていた。 1509年4月15日、ルイ12世はフランス軍総司令官としてヴェネツィアへ侵攻を開始した。これに対抗するため、ヴェネツィアは同じオルシーニ家の傭兵隊長であるバルトロメオ・ダルヴィアーノとニッコロ・ディ・ピティリアーノを雇い入れたものの、彼らはフランス軍の進撃をどう防ぐかという点で意見が異なっていた。5月初旬にルイ12世の軍勢がアッダ川へ到達すると、ダルヴィアーノは彼らと正面から戦う事を避けて南へ撤退した。5月14日、アニャデッロの戦いにおいて両軍が衝突すると、数でフランス軍に劣るダルヴィアーノはピティリアーノに援軍を要請したものの、ピティリアーノは戦闘を切り上げて進軍せよとする本国からの命令に従って戦場から撤退した。撤退命令を無視して戦い続けたダルヴィアーノ軍は最終的にフランス側に撃破されて降伏し、ピティリアーノは何とかフランス軍との交戦を避けようとしたものの、ダルヴィアーノ軍の敗北を知った彼の傭兵達が翌朝大量脱走し、ピティリアーノはトレヴィーゾへの撤退を余儀なくされた。 アニャデッロでの敗戦によってヴェネツィア側の戦線は完全に崩壊した。ルイ12世率いるフランス軍はブレシアに至るまで何らの抵抗を受ける事も無く進軍して占領し、ヴェネツィアは前世紀の間保持していたイタリア北部の領土を全て失った。フランスによる占領を免れたパドヴァ、ヴェローナ、ヴィチェンツァといった都市も、ピティリアーノ軍の撤退によって無防備な状態で取り残された結果、皇帝マクシミリアン1世からの特使がヴェネトに到着すると速やかに降伏して都市を明け渡した。ユリウス2世はヴィネツィアに聖務禁止令を発令する一方、アルフォンソ1世・デステの助力を得てロマーニャ地方に侵攻し、ラヴェンナを占領する事に成功した。フェラーラ公であったデステは4月19日に教皇軍最高司令官に任命されており、彼の活躍によってフェラーラ公国はポレージネ(現在のロヴィーゴ県)まで領地を広げている。 しかしながら、皇帝の代官達がヴェネトに到着すると情勢は一変する。1509年7月中旬、アンドレア・グリッティ率いるヴェネツィア騎兵隊の援助を受けたパドヴァ市民が一斉に蜂起し、市内に駐留していた皇帝のランツクネヒトを追放、7月17日には町が再びヴェネツィアの手に戻ったのである。反乱の報を受けたマクシミリアン1世は皇帝軍・フランス軍・スペイン軍から成る大軍を引き連れて8月初旬にトレントを出発し、ヴェネトへと進軍を開始した。だが馬の不足と杜撰な指揮系統によって軍の歩みは遅く、その間にピティリアーノは軍を立て直してパドヴァへ駆けつける事に成功した。1509年9月15日に開始されたパドヴァ包囲戦は、同盟軍の砲撃によってパドヴァの城壁が破壊された後もヴェネツィア守備隊の抵抗によって長引き、業を煮やしたマクシミリアン1世は9月30日に包囲を解き、主軍をチロルに撤退させてしまった。 11月中旬になると、ヴェネツィア軍は攻勢に出た。ピティリアーノ率いる軍は各地に残っていた皇帝軍を次々と破り、ヴィチェンツァ、エステ、フェルトレ、ベッルーノを奪還した。その後に行われたヴェローナへの攻撃は失敗したものの、ピティリアーノはフランチェスコ2世・ゴンザーガ率いる教皇軍を撃破するため、ポレゼッラに駐屯していたフェラーラ軍への攻撃を命じた。だがアンジェロ・トレヴィサンによるガレー船からの地上攻撃は失敗し、フランチェスコ・グイチャルディーニの指揮を受けたフェラーラ軍の砲撃によってポー川に停泊していたヴェネツィア海軍は壊滅的損害を被った。フランス軍の増援も迫りつつあったため、ピティリアーノは再度パドヴァへの撤退を強いられた。 資金と人員の両面が枯渇しつつある事に気づいたヴェネツィア議会はユリウス2世に和平を打診したものの、教皇が対価として要求した条件は極めて厳しいものだった。ヴェネツィアはそれまで伝統的に保持してきた自国領内の聖職者に対する司法権・任命権・課税権を失うのみならず、戦争の契機となったロマーニャ地方の諸都市を教皇へ割譲し、更に教皇が費やした戦費の全額補償を求められたのである。和平を受け入れるか否かの論争は2ヶ月近くに及び、結局1510年2月24日にヴェネツィアは和平を受諾した。この和平条約は破門されたヴェネツィア側が大使を派遣して教皇に赦免を求める形で締結されたものの、一方でヴェネツィアの十人委員会は密かに「この条約は強要されたものであり、共和国は適切な時期にこの条約を破棄すべきだ」とする決議を下していた。 教皇とヴェネツィア間では和平が成立したものの、フランス軍は3月になると再びヴェネツィアへ侵攻を開始した。1月に死去したピティリアーノに代わってアンドレア・グリッティがヴェネツィア軍総司令官に就任したものの、皇帝軍との合流に失敗したにも関わらずフランス軍は破竹の勢いで進軍し、3月中にヴィチェンツァからヴェネツィア軍を追い出す事に成功した。グリッティはフランス・皇帝両軍による攻撃に備えてパドヴァに篭城したが、ルイ12世は彼の軍事顧問だったジョルジュ・ダンボワーズの死に気を取られ、攻城戦は中止となった。
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