レッドストーンクリーク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 15:22 UTC 版)
「ネセシティ砦の戦い」の記事における「レッドストーンクリーク」の解説
ワシントンは、500人ほどのフランス人部隊が、デュケーヌ砦で物資の供給を受けられずにいると耳にして、6月16日に300人のヴァージニア兵をグレイトメドウズから連れ出し、レッドストーン砦(レッドストーンクリーク)の最前線へと続く道を広げさせた。6月18日、ワシントンはタナチャリゾンと会った。タナチャリゾンは、ワシントンの軍を援助するために、他部族の族長を説得したが失敗したと伝え、また、ヴァージニア兵を援助できそうにないとも言った。インディアンの援助を受けられなくなったワシントンの部隊は、攻撃に対してかなり隙ができそうだったが、レッドストーンクリークへの道を広げ続けた。 6月28日、作戦会議の後に、ワシントンはグレイトメドウズへの撤退を命じた。同じ日、600人のフランス部隊と100人のインディアンが、殺されたジュモンヴィユの兄に当たるルイ・クーロン・ド・ヴィリエに率いられてデュケーヌ砦を出発した。フランスとフランス系カナダ人の勢力に先んじるためにも、ヴァージニア部隊は多くの物資を放棄せざるを得なかった。7月1日、彼らはネセシティ砦に着いた。
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