ジュモンヴィルグレン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 15:22 UTC 版)
「ネセシティ砦の戦い」の記事における「ジュモンヴィルグレン」の解説
詳細は「ジュモンヴィルグレンの戦い」を参照 27日、クリストファー・ギストがワシントンの野営地に着き、自分が住む小屋にフランスの50人部隊が来て、牛を殺し、家の中のものを全部壊すと脅かしたと話した。ワシントンは対抗策として、大尉のホッグと75人の兵にそのフランス人部隊を追跡させた。しかし、ホッグが発ったそのすぐ後に、ワシントンは若いインディアンたちを呼び集め、フランス軍がタナチャリゾンを暗殺に来ていると伝え、インディアンたちもまたフランス部隊を追跡に向かった。その夜、ワシントンの元に、タナチャリゾンから、フランス軍の野営地を見つけたと言う知らせが届いた。ワシントンは、自らフランスへの攻撃を行うことを決意し、40人の兵を連れ、翌朝、12人のインディアンの兵士を連れたタナチャリゾンと会い、フランスの野営地を攻撃することで合意した。ワシントンはフランス兵を待ち伏せして、10人から12人を殺し、2人を負傷させて21人を捕囚した。戦死した者の中には、ジュモンヴィユもいた。ジュモンヴィユがどのようにして戦死を遂げたのか、はっきりとはわからないが、幾つかの証言によると、タナチャリゾンがジュモンヴィユに冷酷な処刑を行ったと言われる。タナチャリソンは斧でジュモンヴィユの頭をたたき割り、脳で自分の手を清めた 。あるインディアンからコントルクールに伝えられた証言では、ジュモンヴィユは、召喚状が読み上げられている間に、イギリス軍の兵士により射殺されたとなっている。
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