証言と分析
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 04:19 UTC 版)
「ジュモンヴィルグレンの戦い」の記事における「証言と分析」の解説
この戦闘に関しては、記録が元々矛盾しており、現代の、そしてかつての歴史的な考察では、安易に、個々人の好みで一つの情報のみが優先された。例えば、フランシス・パークマンは、ワシントンの証言を肯定し、モンソーやインディアンの証言はかなり見下している。 フランス当局は、この事件に関するイギリス側の証言の文書を一式集めていた。Mémoire contenant le précis des faits, avec leurs pièces justificatives, pour servir de réponse aux 'Observations' envoyées par les Ministres d'Angleterre, dans les cours de l'Europe(イギリス本国政府より、ヨーロッパの法廷に送付された検証への返答である、イギリス本国当局の事件の証言の要約録)と題されている。これは1756年に写しが盗みとられ、"A memorial containing a summary view of facts, with their authorities, in answer to observations sent by the English ministry to the courts of Europeとして出版された。この本は、ワシントンの降伏文書や、ネセシティ砦でつけていた日記の引用を始め、他の文書をも資料として用い、ワシントンが実際にジュモンヴィユの暗殺を命じていたことを示唆する内容になっている。しかし、すべてのフランス人がそれを信じていたわけではない。フランソワ=ガストン・レビは、これを「虚偽の暗殺」と呼んだ。イギリスの証言とフランスのそれは対照的だった。ワシントンの報告では、イギリス側は、ジュモンヴィユはむしろ外交上の特命を帯びたスパイではないかと疑っていた。もし退却命令が読み上げられたのであれば、その時点で、ジュモンヴィユの令はコントルクールに届き、必要とあらば、応援軍が送られてくるはずだった。 フレッド・アンダーソンは、暗殺時にタナチャリゾンがなぜ行動したかについて理論づけている。そして、彼の兵の一人が、なぜあれはイギリス軍がやったと言ったのか、予想しうる説明をつけている。タナキャリゾンは、地元の部族(特にデラウエア族)に対する影響力を失っており、イギリスとフランスが交戦をすれば、イギリスの同盟軍ということで、名誉回復できるのではと考えたのであろう。パークマンによれば、インディアンたちはフランス兵を殺して頭皮を剥いだ後、その頭皮をデラウエア族に送り、彼らに、実質上イギリス軍と共に「手斧を取って」フランスと戦える機会を与えたのではないかとしている。
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