証言、人物評等
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以下の証言の内、生前のエピソードは、牟田口やビルマ戦線関連の書籍などにおいて、匿名を含む関係者の証言として伝えられているものである。中でも高木俊朗の手になる小説『抗命』『全滅』は多くの証言を集めており、高木自身も牟田口に対して極めて批判的である。 第18師団長時代、師団の池田後方主任参謀は牟田口について「中将は後方が無理解で、無理難題を幾度も押し付けられて泣かされたことがある」と述懐したことがある。 第18師団長時代の牟田口は、上層部の立案したインド侵攻計画「二十一号作戦」に無謀だと反対したが、後に大本営や南方軍に逆らったことを反省している。このことについて、戦史研究家の土門周平は、上司に命じられたことにはただ従えば良いとする発想は、師団長にはふさわしくない下級将校の論理だと非難している。 戦後に第18師団の元将兵との面接や部隊史の調査をした大田嘉弘によれば、第18師団長時代の部下の間ではインパール作戦時の前線将兵の証言と異なって、温情ある将軍で郷土の英雄として誇る見方が大多数であるという。 作戦開始後1カ月半ほどが経過した4月22日、牟田口は第33師団司令部を視察した。当時第33師団は米国留学組の柳田元三師団長により、村を一つ占領する度に前進をストップし、部隊の掌握と補給線の維持に重きを置く「統制前進」により進撃を行っていたため、計画より前進が遅延していた。牟田口は「『弓』は何をしておるのか、何をまごまごしておるのか……これでは、師団長が兵力の温存を図っているとしか考えられない」と激怒し、司令部の天幕内で柳田を大声で罵倒し、その様子は「あたかも伍長が二等兵をどやしつける調子だった」と言う。師団長としての面目を潰された柳田は屈辱に打ち震えたと言う。 インパール作戦が敗色濃厚となり部下の藤原岩市参謀に「陛下へのお詫びに自決したい」と相談した(もとより慰留を期待してのこととされる)。これに対し藤原参謀は「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません。 司令官から私は切腹するからと相談を持ちかけられたら、幕僚としての責任上、 一応形式的にも止めないわけには参りません、司令官としての責任を、真実感じておられるなら、黙って腹を切って下さい。誰も邪魔したり止めたり致しません。心置きなく腹を切って下さい。今回の作戦(失敗)はそれだけの価値があります」と苦言を呈され、あてが外れた牟田口は悄然としたが自決することなく、余生をまっとうした。 インパール作戦失敗後の7月10日、司令官であった牟田口は、自らが建立させた遥拝所に幹部将校たちを集め、泣きながら次のように訓示した。「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる……」。訓示は1時間以上も続いたため、栄養失調で立っていることができない幹部将校たちは次々と倒れた。この牟田口の訓示は、牟田口の出身地である佐賀の書物『葉隠』に採録の大木前兵部(大木統清)の言葉に由来している。 第15師団後方主任参謀野中国男少佐は、1944年7月の佐藤師団長の更迭に際し、15軍の司令部に連絡のため訪れた。出迎えた牟田口の表情は当初温和そのものであったが、佐藤がラングーンに向け移動する途中で司令部に立寄った際にはわざと前線視察に出て会見を避けた。その翌日、牟田口は「烈の幕僚は、ひとりとして、腹を切ってでも佐藤師団長を諌める者は居ないのか」と腹切りに固執した。野中は、前日の物分りのよい司令官とは全く別の人間が現れたように感じたと言う。 野中によれば、15軍司令部を見ていてすぐに分かったのは牟田口と幕僚の間が全く疎隔しており、意思疎通がなかったことであった。ただ1人牟田口に接近していたのが久野村桃代参謀長であった。参謀が意見具申をしていることがあっても、牟田口は頑なに意見を聞かなかった。一方、牟田口が示す命令は実行不能なものばかりで、参謀達は起案を拒否したため、牟田口が自身で起案していた。 野中によれば、牟田口はこの頃「一度、教育総監をやってみたい」と口にし、周囲の笑いものになった。 クンタンの司令部にも日に日に英軍の砲声が近づいてきた。すると牟田口は当時4日後に移動を予定していたにもかかわらず、「今日すぐに出発する」と発言して周囲を狼狽させた。 1944年8月頃、第31師団歩兵第58連隊の生き残りである内山一郎・高野(戦後上村に改姓)喜代治の両上等兵は部隊の集結点とされたシッタン周辺にいた。2人はそれぞれ少し離れた場所にいたが、前線視察に出てきた牟田口と15軍司令部の一団を目撃している。内山によれば牟田口は傷病兵を見て「貴様等のこのざまは何だ。それでも帝国陸軍か! こういうのを魂の抜け殻と言うのだ」と怒鳴り散らしていた。それでも兵達は動こうとしなかった。また、兵隊達が年次の低い兵を小突くように、お供していたある少佐を衆目の面前で「軍法会議ものだ。恥を知れ恥を」と殴りつけた。 高野が見たその少し後の場面では、撤退し、他の将兵と同じようにぼろぼろとなっていたある師団の少佐が牟田口を見つけ、路上で申告した。牟田口は「貴様は病気を口実に後に下がった。自分の部下をどうしたのか。病気は何だ」と難詰し、少佐が「負傷とマラリアと下痢であります」と答えると「そんなものは病気じゃない。貴様のような大隊長が居るから負けるんだ。この大馬鹿者」と手持ちの杖でその少佐を何度も叩いた。高野もこの一団に誰何されたが、その際の内心を次のように書いている。「てめえらにシンから敬礼する気持ちのある兵隊なんざあ、一日中駆けずり回ったところで、一人でも居るかってんだ。(中略)てめえら俺達兵隊を虫ケラとでも思ってやがんのか! 性根を据えて返答しやがれ!」。 第33師団歩兵第213連隊で大隊長を務めていた伊藤新作少佐は、牟田口率いる第15軍の命令を無謀だと考え、面従腹背で済ませようとした。しかし、牟田口は伊藤を抗命罪で罷免し、伊藤がシッタンの軍司令部で牟田口に申告を行った際、罵声と共に杖で3回強打した。伊藤は「予の軍隊生活二十年の間、かくも悔しきことなかりき」と後任の大隊長に送った通信文で述べたという。 第15師団長山内正文の戦闘詳報に「撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり」と名が挙げられている。 イギリス軍のアーサー・パーカー中佐は、昭和37年7月25日に牟田口へと渡された書簡で、意表をついた作戦と評価し、また、師団長の後退がなければ、最重要援蒋ルートであるレド公路への要衝でもあり、インパールへの補給・増援の起点でもある要衝ディマプールは落ちていたかもしれないと牟田口を高く評価した。もっとも、たとえディマプールを占領できたとしても、維持できたかどうかは別問題である(詳細はインパール作戦)。このパーカー書簡を読んで以後、牟田口は戦後それまでの謝罪活動を止め、上述のように自己弁護につとめた。 作家の相良俊輔から死去直前に取材を受けた際、牟田口は、「バーカー中佐の証言で私の作戦が誤りでなかったことが確認できたが、数万の部下を死に追いやった事実は消えはせず、私の心が晴れることはない」旨を語っている。 読売新聞は、1970年頃に紙上で「昭和史の天皇」と題した太平洋戦争関連のドキュメントを連載し、後に書籍化した。同書はその中で牟田口の弁明について一章を設け、「失意のどん底にあった老将軍が、日頃の鬱積した恨みをこの小冊子にぶちまけたとしても、何も目くじらを立てて非難するには当たらないだろう」と記述した。 半藤一利も、兵站や部隊機械化を軽視する日本軍の風潮の極北の存在としてインパール作戦の失敗は牟田口の一連の作戦指導に責任があるという立場から、愚将と見做している。 イギリスでは、第14軍司令官ウィリアム・スリム中将が回想録『Defeat into Victory 』でインパール作戦を痛烈に批判しており、「日本陸軍の強みは上層部になく、その個々の兵士にある」と下士官兵を賛辞する一方で、「河辺将軍とその部下」ら高級指揮官については「最初の計画にこだわり応用の才がなく、過失を率直に認める精神的勇気が欠如」「日本の高級司令部は我々をわざと勝たせた」と皮肉っている。軍事史研究者のジョン・フェリスは「無能」の一言で切り捨てている。他方、ウィンゲート旅団(en)参謀長のデリク・タラク(Derek Tulloch)少将は著書で、牟田口の作戦指導についてはイギリス側からジョセフ・スティルウェルやクレア・リー・シェンノートに対する評価と同様に低く評価されているとしたうえで、タラク自身による見解としては、インパール作戦以外の主要戦闘では勝利を収めており、最後のインパール作戦でもワーテルローの戦い以上に劣勢な戦力で非常に際どいところまで戦ったと高く評価している。 インパール作戦当時は参謀本部第三部長、牟田口の予備役編入後の1945年(昭和20年)2月に陸軍省人事局長となり、陸軍消滅まで同職にあった額田坦中将は、下記のように牟田口に同情的な見解を述べている。 参謀本部第三部長であった額田はインパール作戦の経過を注視しており、コヒマ進出を聞き狂喜していた。コヒマという要衝を占拠しながら、まさか佐藤幸徳師団長が独断退却に決するとは夢想だにしなかった。牟田口軍司令官の無念のほどは察するに余りある。 戦後、当方面の英軍参謀中佐は牟田口中将に書面を寄越し「何故もう一押ししなかったのか? 当時英軍は危機に瀕していた」と書き、特にコヒマ進出を称えていた由。 多くの書類に、本作戦の強行は、「牟田口軍司令官の熱意に押しまくられた」と書かれているが、牟田口軍司令官の企図が無謀ならば、河辺正三方面軍司令官はなぜこれを抑えなかったか。さらに総軍は如何。総軍は、1944年(昭和19年)1月には綾部橘樹参謀副長を上京させて、本作戦の遂行を具申している。そして、大本営はついにこれを承認した。 牟田口中将の帰還、予備役編入は一応やむなしとするも、もし本作戦が最初から無謀で決行すべきでなかったとすれば、インパール作戦開始前に転職せしめるべきではなかったか。作戦開始後、頽勢挽回の出来ない1944年(昭和19年)8月ともなれば、そのまま現職を遂行させて、牟田口中将にビルマで死処を与えるべきではあるまいか。これが「葉隠れ武士」に対する礼であったように考える。 インパール作戦後、牟田口中将が予備役に追われたのに対し、河辺中将が現役に留まって1945年(昭和20年)3月に大将に親任され、同年4月に航空総軍総司令官に栄進したのには割り切れない感を持つ。 以上のように、牟田口に関しては司令官としての資質を疑問視する声が強い。これらは主にインパール作戦においての暴走、大敗北に起因するものであるが、必ずしも牟田口の暴走のみにより作戦が決行された訳ではない、勝敗は紙一重のところであった、など、牟田口の作戦指揮に対して好意的な解釈も一部に見られる。
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