証言、人物評等とは? わかりやすく解説

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証言、人物評等

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 01:47 UTC 版)

牟田口廉也」の記事における「証言、人物評等」の解説

以下の証言の内、生前のエピソードは、牟田口やビルマ戦線関連書籍などにおいて、匿名を含む関係者の証言として伝えられているものである中でも高木俊朗の手になる小説抗命』『全滅』は多く証言集めており、高木自身牟田に対して極めて批判的である。 第18師団長時代、師団池田後方主任参謀牟田口について「中将後方無理解で、無理難題幾度も押し付けられ泣かされことがある」と述懐しことがある第18師団長時代の牟田口は、上層部立案したインド侵攻計画二十一号作戦」に無謀だ反対したが、後に大本営南方軍逆らったことを反省している。このことについて、戦史研究家土門周平は、上司命じられたことにはただ従えば良いとする発想は、師団長にはふさわしくない下級将校論理だと非難している。 戦後第18師団の元将兵との面接部隊史調査をした大田嘉弘によれば第18師団長時代の部下の間ではインパール作戦時の前線将兵証言異なって温情ある将軍郷土英雄として誇る見方大多数であるという。 作戦開始後1カ月半ほどが経過した4月22日牟田口は第33師団司令部視察した当時第33師団米国留学組の柳田元三師団長により、一つ占領する度に前進ストップし部隊掌握補給線維持重きを置く統制前進」により進撃行っていたため、計画より前進遅延していた。牟田口は「『弓』は何をしておるのか、何をまごまごしておるのか……これでは師団長兵力温存図っているとしか考えられない」と激怒し司令部天幕内で柳田大声罵倒しその様子は「あたかも伍長二等兵どやしつける調子だった」と言う師団長としての面目潰され柳田屈辱打ち震えたと言うインパール作戦敗色濃厚となり部下藤原岩市参謀に「陛下へのお詫び自決したい」と相談したもとより慰留期待してこととされる)。これに対し藤原参謀は「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません。 司令官から私は切腹するからと相談持ちかけられたら、幕僚としての責任上、 一応形式的に止めないわけには参りません、司令官として責任を、真実感じておられるなら、黙って腹を切って下さい誰も邪魔した止めたり致しません。心置きなく腹を切って下さい今回作戦失敗)はそれだけ価値あります」と苦言呈され、あてが外れた牟田口は悄然としたが自決することなく余生まっとうした。 インパール作戦失敗後の7月10日司令官であった牟田口は、自らが建立させた遥拝所幹部将校たちを集め泣きながら次のように訓示した。「諸君佐藤兵団長は、軍命に背きコヒマ方面戦線放棄した。食う物がないから戦争出来と言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦い放棄する理由にならぬ。弾丸なかったら銃剣があるじゃないか銃剣なくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け日本男子には大和魂があるということ忘れちゃいかん。日本神州である。神々守って下さる……」。訓示1時間以上も続いたため、栄養失調立っていることができない幹部将校たちは次々と倒れた。この牟田口の訓示は、牟田口の出身地である佐賀書物葉隠』に採録大木前兵部(大木統清)の言葉由来している。 第15師団後方主任参謀野中国男少佐は、1944年7月佐藤師団長更迭際し15軍の司令部連絡のため訪れた出迎えた牟田口の表情当初温和そのものであったが、佐藤ラングーンに向け移動する途中で司令部立寄った際にはわざと前線視察出て会見避けた。その翌日牟田口は「烈の幕僚は、ひとりとして腹を切ってでも佐藤師団長諌める者は居ないのか」と腹切り固執した野中は、前日物分りのよい司令官とは全く別の人間現れたように感じたと言う野中によれば15軍司令部見ていてすぐに分かったのは牟田口と幕僚の間が全く疎隔しており、意思疎通がなかったことであった。ただ1人牟田口に接近していたのが久野村桃代参謀長であった参謀意見具申をしていることがあっても、牟田口は頑なに意見を聞かなかった。一方牟田口が示す命令実行不能なものばかりで、参謀達は起案拒否したため、牟田口が自身起案していた。 野中によれば牟田口はこの頃一度教育総監やってみたい」と口にし、周囲笑いものになったクンタン司令部にも日に日に英軍砲声が近づいてきた。すると牟田口は当時4日後に移動予定していたにもかかわらず、「今日すぐに出発する」と発言して周囲狼狽させた。 1944年8月頃第31師団歩兵第58連隊生き残りである内山一郎高野戦後上村改姓喜代治の両上等兵部隊集結点とされたシッタン周辺にいた。2人それぞれ少し離れた場所にいたが、前線視察出てきた牟田口と15軍司令部一団目撃している。内山によれば牟田口は傷病兵見て貴様等のこのざまは何だ。それでも帝国陸軍か! こういうのを魂の抜け殻と言うのだ」と怒鳴り散らしていた。それでも兵達は動こうとしなかった。また、兵隊達が年次の低い兵を小突くように、お供していたある少佐衆目面前で「軍法会議ものだ。恥を知れ恥を」と殴りつけた。 高野見たその少し後の場面では、撤退し、他の将兵同じようぼろぼろとなっていたある師団少佐牟田口を見つけ、路上申告した牟田口は「貴様病気口実に後に下がった自分部下どうしたのか。病気何だ」と難詰し、少佐が「負傷マラリア下痢であります」と答えると「そんなもの病気じゃない貴様のような大隊長が居るから負けるんだ。この大馬鹿者」と手持ちでその少佐何度も叩いた高野もこの一団誰何されたが、その際内心次のように書いている。「てめえらにシンから敬礼する気持ちのある兵隊なんざあ一日中駆けずり回ったところで、一人でも居るかってんだ。(中略)てめえら俺達兵隊虫ケラとでも思ってやがんのか! 性根据えて返答しやがれ!」。 第33師団歩兵213連隊大隊長務めていた伊藤新少佐は、牟田率い第15軍命令無謀だ考え面従腹背済ませようとした。しかし、牟田口は伊藤抗命罪罷免し、伊藤シッタン軍司令部牟田口に申告行った際、罵声と共に3回強打した伊藤は「予の軍隊生活二十年の間、かくも悔しきことなかりき」と後任大隊長送った通信文で述べたという。 第15師団長山正文戦闘詳報に「撃つに弾なく今や豪雨泥濘中に傷病飢餓為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり」と名が挙げられている。 イギリス軍のアーサー・パーカー中佐は、昭和37年7月25日牟田口へと渡され書簡で、意表をついた作戦評価しまた、師団長後退なければ最重要援蒋ルートであるレド公路への要衝でもあり、インパールへの補給増援起点でもある要衝ディマプール落ちていたかもしれない牟田口を高く評価した。もっとも、たとえディマプール占領できたとしても、維持きたかどうかは別問題である(詳細インパール作戦)。このパーカー書簡読んで以後牟田口は戦後それまで謝罪活動止め上述のように自己弁護つとめた作家相良俊輔から死去直前取材受けた際、牟田口は、「バーカー中佐証言で私の作戦誤りでなかったことが確認できたが、数万部下死に追いやった事実消えはせず、私の心が晴れることはない」旨を語っている。 読売新聞は、1970年頃に紙上で「昭和史の天皇」と題した太平洋戦争関連ドキュメント連載し、後に書籍化した同書その中で牟田口の弁明について一章を設け、「失意どん底にあった老将軍が、日頃鬱積した恨みをこの小冊子ぶちまけたとしても、何も目くじらを立てて非難するには当たらないだろう」と記述した半藤一利も、兵站部隊機械化軽視する日本軍風潮極北存在としてインパール作戦失敗牟田口の一連の作戦指導責任があるという立場から、愚将見做している。 イギリスでは、第14軍司令官ウィリアム・スリム中将回想録Defeat into Victory 』でインパール作戦痛烈に批判しており、「日本陸軍強み上層部になく、その個々兵士にある」と下士官兵賛辞する一方で、「河辺将軍とその部下」ら高級指揮官については「最初の計画こだわり応用の才がなく、過失率直に認め精神的勇気欠如」「日本の高級司令部は我々をわざと勝たせた」と皮肉っている。軍事史研究者ジョン・フェリスは「無能」の一言切り捨てている。他方、ウィンゲート旅団en参謀長のデリク・タラク(Derek Tulloch)少将著書で、牟田口の作戦指導についてはイギリス側からジョセフ・スティルウェルクレア・リー・シェンノート対す評価同様に低く評価されているとしたうえで、タラク自身による見解としては、インパール作戦以外の主要戦闘では勝利を収めており、最後インパール作戦でもワーテルローの戦い以上に劣勢戦力で非常に際どいところまで戦った高く評価している。 インパール作戦当時参謀本部第三部長、牟田口の予備役編入後1945年昭和20年2月陸軍省人事局長となり、陸軍消滅まで同職にあった額田坦中将は、下記のように牟田口に同情的な見解述べている。 参謀本部第三部であった額田インパール作戦経過注視しており、コヒマ進出聞き狂喜していた。コヒマという要衝占拠しながら、まさか佐藤幸徳師団長独断退却決するとは夢想だにしなかった。牟田軍司令官無念のほどは察するに余りある戦後当方面の英軍参謀中佐牟田口中将に書面寄越し「何故もう一押ししなかったのか? 当時英軍危機瀕していた」と書き、特にコヒマ進出称えていた由。 多く書類に、本作戦の強行は、「牟田軍司令官熱意押しまくられた」と書かれているが、牟田軍司令官企図無謀ならば、河辺正三方面軍司令官はなぜこれを抑えなかったか。さらに総軍如何総軍は、1944年昭和19年1月には綾部橘樹参謀副長上京させて、本作戦の遂行具申している。そして、大本営はついにこれを承認した牟田口中将の帰還予備役編入は一応やむなしとするも、もし本作戦が最初から無謀決行すべきでなかったとすればインパール作戦開始前転職せしめるべきではなかったか。作戦開始後頽勢挽回出来ない1944年昭和19年8月ともなれば、そのまま現職遂行させて、牟田口中将にビルマ死処与えるべきではあるまいか。これが「葉隠れ武士」に対する礼であったように考える。 インパール作戦後、牟田口中将が予備役追われたのに対し河辺中将が現役に留まって1945年昭和20年3月大将親任され、同年4月航空総軍総司令官栄進したのには割り切れない感を持つ。 以上のように、牟田に関して司令官として資質疑問視する声が強い。これらは主にインパール作戦においての暴走大敗北に起因するのであるが、必ずしも牟田口の暴走のみにより作戦決行され訳ではない勝敗紙一重のところであった、など、牟田口の作戦指揮に対して好意的な解釈一部見られる

※この「証言、人物評等」の解説は、「牟田口廉也」の解説の一部です。
「証言、人物評等」を含む「牟田口廉也」の記事については、「牟田口廉也」の概要を参照ください。

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