ルイビル・アンド・ナッシュビル鉄道の社長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 05:51 UTC 版)
「ジョン・L・ヘルム」の記事における「ルイビル・アンド・ナッシュビル鉄道の社長」の解説
1852年アメリカ合衆国大統領選挙では、ヘルムはウィンフィールド・スコットの大統領選挙人になった。この後12年間は政界を離れていた。既に1836年にはルイビル・アンド・ナッシュビル鉄道の建設を提案していた。1854年10月2日、ヘルムはその鉄道会社の2代目社長になった。前任社長はルイビル市の市政委員と折り合いが悪くてその地位から追い出されており、鉄道の建設はほとんど中断されそうになっていた。 ヘルムは鉄道の本線沿いの住民に、それがもたらす経済効果を熱心に説いた。住民の多くを説得して鉄道のために土地を開き、平にさせ、報酬として会社の株を受け入れさせ、同じ地域の住民には株式予約権を販売することに成功した。労務費が上がり、また資材を運搬するときの問題などで計画予算よりも出費が上回ったので、ヘルムは私財2万ドル(2014年換算で52万ドルに相当)を会社の債券に換えた。一方で、ヘルムの会社経営ミスを咎める者もいた。1857年にルイビル市が資金援助として30万ドル(2014年換算で759万ドルに相当)を拠出したときに会社の資産が改善され、鉄道は1859年10月18日に開通した。ヘルムの影響力もあり、鉄道の認可には全ての列車がエリザベスタウンで停車することが求められた。 鉄道が開通したときまでに、ヘルムに辞任を求める声が会社の内外から起こっていた。これは提案されていたメンフィス支線をヘルムが支持したことが大きな原因だった。この支線を完成させるためには、会社がボーリンググリーンからガスリーまでの路線を完成させる必要があった。そこでメンフィス・アンド・オハイオ鉄道が所有する路線と接続し、テネシー州クラークスビルで州境を越えてメンフィスまで延伸する筈だった。この支線を支持する者は、経済的にルイビル・アンド・ナッシュビル鉄道とメンフィス・アンド・オハイオ鉄道の双方に有利となり、ミシシッピ川やオハイオ川への依存度を下げられると考えた。支線に反対する者は、この計画が苦闘する鉄道に新たな支援を喚起する策略に過ぎないと主張した。ヘルムは1857年の年間報告書でメンフィス支線を肯定していた。 1860年2月4日、取締役会のメンバー2人が、ヘルムの辞任を求める文書を起草した。彼等はルイビルとナッシュビルの間の本線が完成した暁にヘルムが辞任するという諒解で、社長再選に賛成したと主張した。ヘルムはローガン郡の住民に借りがあると主張した。ヘルムはその多くに自ら株を売っており、ローガン郡を通ってメンフィス支線が開通されるまで社長に留まると約束していたからだった。しかしヘルムと取締役達との間の亀裂は広がり続けた。ヘルムは1860年2月21日に社長を辞任し、後任にはジェイムズ・ガスリーが座った。メンフィス支線は1860年9月24日に開通した。
※この「ルイビル・アンド・ナッシュビル鉄道の社長」の解説は、「ジョン・L・ヘルム」の解説の一部です。
「ルイビル・アンド・ナッシュビル鉄道の社長」を含む「ジョン・L・ヘルム」の記事については、「ジョン・L・ヘルム」の概要を参照ください。
- ルイビル・アンド・ナッシュビル鉄道の社長のページへのリンク