ルイブールの戦い後の英仏関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 00:23 UTC 版)
「タタマガッチ沖の海戦」の記事における「ルイブールの戦い後の英仏関係」の解説
この海戦はルイブールの陥落に大きな意味を持った。マリンの救援が妨害されたためだった。 ルイブール陥落から数週間がたち、ドナヒュウとフォーンズは再びマリンと交戦した。現在のカンゾ海峡の近くであった。ドナヒュウと11人の兵が上陸したところ、すぐさま300人のインディアンが彼らを取り囲んだ。ドナヒュウと5人の兵が殺され、残った6人は捕囚された。伝えられるところによると、インディアンはドナヒュウの胸元を切り開いて血をすすり、彼と兵たちの体の一部を食べたと言われる。この話は、ルイブールに漂っていた、陰鬱でいらいらした気分を大いに高めた。7月19日、レゾリューション号は、ハーフマストに国旗を掲げて、ゆっくりとルイブールに入港した。この船の指揮官であるドナヒュウの恐ろしくて不運な話は、すぐさまルイブールの乗組員の間に広まった。 この戦いを記念して、1939年8月に、港を見下ろすタタマガッチの地に記念碑がたてられた。
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