ルイブール総督就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/20 04:49 UTC 版)
「チャールズ・ノウルズ」の記事における「ルイブール総督就任」の解説
1743年から1745年の間、ノウルズは多くの敵艦を拿捕したが、この行為に対して、ジャマイカの名士63人の署名がある手紙を受け取った。それにはこう記してあった。 ノウルズ閣下 貴殿の過去、現在、そして未来における任務について我々はよく存じております。国王陛下の命によるこの任務は、常にそうであるように、大衆的人気をなんら得られないものです。今までのところ、これらの任務は完全に理にかなっておりますが、まさに、じかに任務に関わる方々のおひとりとして、貴殿のなさることは、少なくとも、許されざる任務怠慢と我々は見るべきでしょう。もしそのような行為がよからぬことをお考えでないのであれば、貴殿方の任務に対して、我々は統一見解を持つことを放棄するべきでしょう。 — 1745年、ノウルズは新しい軍艦であるデヴォンシャー(英語版)の艦長となった。その年の遅く彼はイギリスに戻り、1746年の1月にカンタベリー(英語版)に乗艦してザ・ダウンズ(英語版)の兵たちの指揮を、中将ウィリアム・マーティンのもとで執った。短期間、フランスの侵略の準備に備えて分遣され、2月には戻って2隻のフランス船を拿捕した。3月21日にはエディンバラ(英語版)に乗り、セントヘレンズからイギリス海峡に向かう船団を護衛し、その後は50門艦のノーウィッチ(英語版)に移った。 1746年、ノウルズはピーター・ウォーレンの後継者としてルイブールの総督に就任した。1746年3月31日に、カンタベリーとルビー(英語版)と共にルイブールに着いた。彼は2年近く総督として過ごし、始めのうちはニューカッスル公トマス・ペラム=ホールズに「混乱して、汚くて、けだものじみた状況の」砦に関して不満をぶつけた。その当時、砦は修復と防御強化の工事がなされていた。1747年7月15日に白色少将に昇進して、ジャマイカの駐屯地の司令長官となった。この昇進に当たって、カンタベリーの甲板上に自らの旗をなびかせたが、すぐにコーンウォール(英語版)に代わった。最初は自分の戦隊を使ってサンティアーゴ・デ・クーバを攻撃しようとしたが、逆風のため、サン=ルイ・ド・スド砦を攻撃した。1748年の3月8日にサンルイ・ド・スドに到着し、砦を重爆撃で降伏させたのち、自らの支配下に置いた(サン=ルイ=デュ=シュドの海戦)。1748年5月12日には、赤色少将に昇進し、4月5日にサンティアーゴ・デ・クーバに戻って新たに攻撃を仕掛けたが、砦の攻略はかなわず、一旦ジャマイカに戻った(サンティアーゴ・デ・クーバの海戦)。
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