ガスペ湾奇襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/12 01:05 UTC 版)
「セントローレンス湾方面作戦」の記事における「ガスペ湾奇襲」の解説
1758年9月5日にルイブールの戦いが終わり、ウルフはガスペ湾のロイヤル・ウィリアムに到着した。当初は300人いた住民が、この奇襲時には60人しかいなかった。この地の領主(英語版)はピエール・リヴォルであった。ハーディはこの地を占領し、住民は森へと逃げた。この奇襲の報告のまとめによると、製材所や鍛冶屋の仕事場を含めた15の建物が壊された。60人の住民のうち、37人が捕囚されて、イギリスの輸送艦でフランスに戻された。この、捕虜となったアカディア人たちの多くは、フランスのサン・マロの出身であった。その一方で6人が逃亡した。あとの約18人は不明である。
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