ロシア帝国領のベッサラビアとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ロシア帝国領のベッサラビアの意味・解説 

ロシア帝国領のベッサラビア(1812年 - 1918年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 04:02 UTC 版)

モルドバの言語・民族性問題」の記事における「ロシア帝国領のベッサラビア(1812年 - 1918年)」の解説

1812年モルダヴィア公国領の東部オスマン帝国からロシア帝国割譲された。この領土ベッサラビア呼ばれ、後のモルドバ共和国領土大部分この中含まれるトランスニストリア地域を除く)。 ルーマニア語話者が住むトランシルヴァニアモルダヴィアおよびワラキアの地を統合する構想18世紀まで見られず、それは「時代精神合わないもの」であった18世紀訪れとともにドイツフランスナショナル・ロマンティシズム感化された汎ルーマニア民族主義勃興した西側諸国教育受けたモルダヴィアワラキアの若い貴族たちは、自国近代化統一ルーマニア国民国家の樹立といった野心的な政治的目標自国持ち帰った1859年には、国際社会追い風を受け、オスマン帝国自治国であったワラキアとモルダヴィアは、アレクサンドル・ヨアン・クザ両国の共通の君主として戴くこととなった統一国家となったルーマニア重要課題のひとつに、国民大部分占める、国内々に住む文盲人々に、小学校通して教育普及させることであったモルダヴィアワラキア起源に関する伝承は、統一ルーマニア国家を喧伝する役割をもつようになった統一されルーマニア語とその正書法ラテン文字によるルーマニア語アルファベット確立し旧来のキリル文字によるルーマニア語アルファベットから置き換えることも、国家重要課題であったオーストリア帝国支配下であった民族混住の地トランシルヴァニアでも、異民族との接触影響や、後のハンガリー国家におけるルーマニア人政治的劣勢強硬なハンガリー民族主義政策への反動として、ルーマニア語話者たちの間でルーマニア民族意識高まっていった。 こうした状況は、ロシア帝国の支配にあったベッサラビアには及ぶことはなかった。ベッサラビアにおけるロシア化政策は、上流社会では一定の成果挙げていたが、住民大多数占め地方庶民の間ではたいした影響与えことはなかった。ルーマニア人政治家・タケ・ヨネスク (Take Ionescu)は当時、「ルーマニア人地主たちは、同化政策によってロシア化され、この地の主であり続けることを認められているが、農民たちはそうした国家に関する問題には無関心である。脱ルーマニア化のための学校はなく、教会ではロシア語奉神礼が行われているが、それもたいした問題ではない」と記している。ブカレスト大学University of Bucharest)の講師クリスティナ・ペトレスク (Cristina Petrescu)は、「ベッサラビアでは連合公国ワラキアとモルダヴィア)から近代国家への移行目指し改革から取り残された」と記している。イリーナ・リヴェゼアヌ (Irina Livezeanu)は、20世紀初頭には、かつてのモルダヴィア公国領域に住む農民たちは、都市部住民よりも自身モルダヴィア人とする傾向があったと主張している。カール・マルクスワラキアとモルダヴィアロシア帝国に関する2つの手記の中で、ベッサラビアロシアへ併合や、2公国度重なる占領非難している。「モルドヴァラキア」の住民に関してマルクスは、東方イタリア語話し自身ルーマニア人称するが、異民族からはヴラフとかワラキア人とか呼ばれている、と記した。後に、ルーマニア人ワラキアモルダヴィアトランシルヴァニアバナトブコヴィナベッサラビアに住むとしている。更にマルクスは、クリミア戦争1853年 - 1856年に関する1854年10月2日ニューヨーク・トリビューン (New-York Daily Tribune)の記事で、ベッサラビアの「ローマ人」がや町を去るようロシア人から命じられたことに関してワラキアモルダヴィアの「ローマ人以上に遺憾に思うとしている。フリードリヒ・エンゲルスは、1890年執筆した「ロシア・ツァーリズムの対外政策」の第2章の中で、次のように述べている。「ロシア人民族主義が、エカチェリーナによる侵略何らかの - 私はそれを正当性とは呼ばないが - 何らかの口実与えたとすればアレクサンドロス大王のそれとは全く異なものであろうフィンランドフィンランド人スウェーデン人の、ベッサラビアルーマニア人の、ポーランド王国ポーランド人のものである」。ウラジーミル・レーニン初期の著作のひとつ、『ロシアにおける資本主義発展』(The Development of Capitalism in Russia1899年)では、「多く場合帝国辺縁部で隷従下に置かれている民は、その国境向こう側同族の民が住み独立した民族国家実現している(特に、我が国西部および南部国境 - フィンランド人スウェーデン人ポーランド人ウクライナ人ルーマニア人 - で顕著である)」としている。 1849年、ジョージ・ロング (George Long)はワラキアとモルダヴィアが、ただ政治的国境のみによって隔てられており、その歴史強く結びついている記している。モルダヴィアに関しては、その主要民族自身を「ルムン」 (Roomoon)と呼ぶ「ワラキア人」であるとしている。民族学者のロバート・ゴードン・レイサム (Robert Gordon Latham)は1854年に、ワラキア人モルダヴィア人ベッサラビア人は自身呼称を「ローマ人」(Roman)あるいは「ルーマニア人」(Rumanyo)としているとし、更にマケドニアロマンス語話者をもこの呼称呼んでいる。同様に1854年ドイツ人兄弟アルトゥール・ショット (Arthur Schott)とアルベルト・ショット (Albert Schott)は、彼らの著書「Walachische Mährchen(ワラキアおとぎ話)」の冒頭で、ヴラフ人ワラキア人)はワラキアモルダヴィアトランシルヴァニア、ハンガリーマケドニアテッサリアに住むと記している。彼らはまた、ワラキア人に彼らが何者かを尋ねたとき、「Eo sum Romanu(我はルーマニア人)」と答えたことに言及している。

※この「ロシア帝国領のベッサラビア(1812年 - 1918年)」の解説は、「モルドバの言語・民族性問題」の解説の一部です。
「ロシア帝国領のベッサラビア(1812年 - 1918年)」を含む「モルドバの言語・民族性問題」の記事については、「モルドバの言語・民族性問題」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ロシア帝国領のベッサラビア」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ロシア帝国領のベッサラビア」の関連用語

ロシア帝国領のベッサラビアのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ロシア帝国領のベッサラビアのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのモルドバの言語・民族性問題 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS