ロシア帝国領のベッサラビア(1812年 - 1918年)
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「モルドバの言語・民族性問題」の記事における「ロシア帝国領のベッサラビア(1812年 - 1918年)」の解説
1812年、モルダヴィア公国領の東部がオスマン帝国からロシア帝国に割譲された。この領土はベッサラビアと呼ばれ、後のモルドバ共和国の領土の大部分がこの中に含まれる(トランスニストリア地域を除く)。 ルーマニア語話者が住むトランシルヴァニア、モルダヴィアおよびワラキアの地を統合する構想は18世紀まで見られず、それは「時代精神に合わないもの」であった。18世紀の訪れとともに、ドイツやフランスのナショナル・ロマンティシズムに感化された汎ルーマニア民族主義が勃興した。西側諸国で教育を受けたモルダヴィアやワラキアの若い貴族たちは、自国の近代化や統一ルーマニア国民国家の樹立といった野心的な政治的目標を自国に持ち帰った。1859年には、国際社会の追い風を受け、オスマン帝国の自治国であったワラキアとモルダヴィアは、アレクサンドル・ヨアン・クザを両国の共通の君主として戴くこととなった。統一国家となったルーマニアの重要課題のひとつに、国民の大部分を占める、国内の村々に住む文盲の人々に、小学校を通して教育を普及させることであった。モルダヴィアやワラキアの起源に関する伝承は、統一ルーマニア国家を喧伝する役割をもつようになった。統一されたルーマニア語とその正書法、ラテン文字によるルーマニア語アルファベットを確立し、旧来のキリル文字によるルーマニア語アルファベットから置き換えることも、国家の重要課題であった。オーストリア帝国の支配下であった多民族混住の地トランシルヴァニアでも、異民族との接触の影響や、後のハンガリー国家におけるルーマニア人の政治的劣勢や強硬なハンガリー民族主義政策への反動として、ルーマニア語話者たちの間でルーマニア民族意識が高まっていった。 こうした状況は、ロシア帝国の支配下にあったベッサラビアには及ぶことはなかった。ベッサラビアにおけるロシア化政策は、上流社会では一定の成果を挙げていたが、住民の大多数を占める地方の庶民の間ではたいした影響を与えることはなかった。ルーマニア人の政治家・タケ・ヨネスク (Take Ionescu)は当時、「ルーマニア人の地主たちは、同化政策によってロシア化され、この地の主であり続けることを認められているが、農民たちはそうした国家に関する問題には無関心である。脱ルーマニア化のための学校はなく、教会ではロシア語で奉神礼が行われているが、それもたいした問題ではない」と記している。ブカレスト大学(University of Bucharest)の講師クリスティナ・ペトレスク (Cristina Petrescu)は、「ベッサラビアでは連合公国(ワラキアとモルダヴィア)から近代国家への移行を目指した改革から取り残された」と記している。イリーナ・リヴェゼアヌ (Irina Livezeanu)は、20世紀の初頭には、かつてのモルダヴィア公国の領域に住む農民たちは、都市部の住民よりも自身をモルダヴィア人とする傾向があったと主張している。カール・マルクスはワラキアとモルダヴィア、ロシア帝国に関する2つの手記の中で、ベッサラビアのロシアへの併合や、2公国の度重なる占領を非難している。「モルド=ヴァラキア」の住民に関してマルクスは、東方イタリア語を話し、自身をルーマニア人と称するが、異民族からはヴラフとかワラキア人とか呼ばれている、と記した。後に、ルーマニア人はワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニア、バナト、ブコヴィナ、ベッサラビアに住むとしている。更にマルクスは、クリミア戦争(1853年 - 1856年)に関する1854年10月2日のニューヨーク・トリビューン (New-York Daily Tribune)の記事で、ベッサラビアの「ローマ人」が村や町を去るようロシア人から命じられたことに関して、ワラキアやモルダヴィアの「ローマ人」以上に遺憾に思うとしている。フリードリヒ・エンゲルスは、1890年に執筆した「ロシア・ツァーリズムの対外政策」の第2章の中で、次のように述べている。「ロシア人民族主義が、エカチェリーナによる侵略に何らかの - 私はそれを正当性とは呼ばないが - 何らかの口実を与えたとすれば、アレクサンドロス大王のそれとは全く異なものであろう。フィンランドはフィンランド人とスウェーデン人の、ベッサラビアはルーマニア人の、ポーランド王国はポーランド人のものである」。ウラジーミル・レーニンの初期の著作のひとつ、『ロシアにおける資本主義の発展』(The Development of Capitalism in Russia、1899年)では、「多くの場合、帝国の辺縁部で隷従下に置かれている民は、その国境の向こう側に同族の民が住み、独立した民族国家を実現している(特に、我が国の西部および南部の国境 - フィンランド人、スウェーデン人、ポーランド人、ウクライナ人、ルーマニア人 - で顕著である)」としている。 1849年、ジョージ・ロング (George Long)はワラキアとモルダヴィアが、ただ政治的国境のみによって隔てられており、その歴史は強く結びついていると記している。モルダヴィアに関しては、その主要民族は自身を「ルムン」 (Roomoon)と呼ぶ「ワラキア人」であるとしている。民族学者のロバート・ゴードン・レイサム (Robert Gordon Latham)は1854年に、ワラキア人やモルダヴィア人、ベッサラビア人は自身の呼称を「ローマ人」(Roman)あるいは「ルーマニア人」(Rumanyo)としているとし、更にマケドニアのロマンス語話者をもこの呼称で呼んでいる。同様に、1854年にドイツ人の兄弟アルトゥール・ショット (Arthur Schott)とアルベルト・ショット (Albert Schott)は、彼らの著書「Walachische Mährchen(ワラキアのおとぎ話)」の冒頭で、ヴラフ人(ワラキア人)はワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニア、ハンガリー、マケドニア、テッサリアに住むと記している。彼らはまた、ワラキア人に彼らが何者かを尋ねたとき、「Eo sum Romanu(我はルーマニア人)」と答えたことに言及している。
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